気持ちの問題 67 過酷な状況を理解しようとするのは難しい

開館と同時にアクアプラザながらに入りました。

てっきり私一人だろうと思ったら、しばらくしたらもう一人館内を観ている方がいらっしゃいました。

 

館内に入ると、まず伊勢湾台風についてのビデオがあり、たくさんのパネルがありました。

私が生まれる前に、父が伊勢湾台風の被災地への救援に派遣されていたことは子どもの頃に聞いたことがありました。

それでどこかにいつも伊勢湾台風という言葉が残っていたのですが、よくよく記憶を辿ると直接、父からその話を聞いていないのではないかと思います。

 

30年ほど前に長良川河口堰建設反対運動の話を聞いた時にも、伊勢湾台風と私の中でつながっていませんでした。

 

2012年にこのブログを書き始めた頃は、父の記憶がなくなっていくのに反比例するように、私の中での父の存在が大きくなっていった時期でした。

記憶があるうちに父の話をもっと聞きたい、どんな人生で何を見て何を考えたのか知りたい。でもそれは思い出したくないこともあるのではないか、あるいは忘れた記憶の存在を意識させられることは不安と緊張を与えるのではないかという躊躇があり、やはり地獄絵図のような記憶を父に尋ねるのは避けていました。

 

このアクアプラザながらでは、まるで伊勢湾台風の資料館かと思うほど、私が知りたかった資料や写真が展示されていました。

 

5,000人(全国)を越える命が失われた超大型台風

 

昭和34年9月26日午後6時15分頃、和歌山県潮岬付近に上陸した台風15号は、衰えることなく平均時速65キロメートルでの猛スピードで東海地方を駆け抜けました。

風速の最大区域に入った伊勢湾は、著しい気圧低下と猛烈な暴風によって引き起こされた高潮がおり悪く満潮とも重なり、海水が激浪となって湾奥へ押し寄せました。この高潮は観測史上最高となる5.31m(名古屋港)の潮位を記録し、伊勢湾沿岸の防波堤や海岸堤防に、猛烈に襲いかかりました。

暴風雨に異常な高潮が加わり、この世の地獄絵図を現出し、伊勢湾北部の被害は死者行方不明約4千6百人、負傷者約6万5千人に達しました。

 

やはり「地獄絵図」という表現が使われていました。

 

堤防を115箇所も破壊した高潮 台風の猛威は想像を絶した

 

高潮被害が最も大きかった伊勢湾北部においては、昭和34年9月26日午後8時から9時ごろに頃にかけて堤防が高潮により破壊しました。壊れた堤防は三重県川越町から名古屋市南部の海岸堤防および河川堤防だけでも115箇所にものぼりました。

海抜0m地帯では台風後も浸水が続きました。浸水面積は310㎢にもおよび、この内230㎢は浸水期間が2ヶ月以上も続きました。

 

長島地区も2ヶ月以上浸水していたようです。

展示されている「伊勢湾台風写真台帳」では、一帯が海とも川ともわからない水面に、わずかに集落が写っていました。

 

 

30年ほど前は私は災害の歴史を考えることがほとんどなかったので、父の記憶を知ろうともしませんでした。

語られなかった大事な記憶は、雄弁な正義に往々にしてなかったことにされるのかもしれない。

そんな忸怩たる思いと、取り戻せない時間を感じながら展示を見ました。

 

 

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