米のあれこれ 32 「田毎の富士」と浮島ヶ原

昨年6月に佐賀へ向かう途中の新幹線の車窓から、田植え直後の水田に富士山が映っている場所がありました。あっという間に過ぎて製紙工場と少しだけ残る水田の風景になり、富士川を越えました。

 

畦道を散歩している人の姿があり、あの場所を歩いてみたい、そして通過する新幹線を見てみたいと思いました。

 

最初は沼津市明治史料館から新幹線の線路に近い場所を歩いて、岳南鉄道岳南江尾駅まで歩くという無謀な計画をたてました。

実際には、沼津市明治史料館に着いた時にはすでに1万3千歩以上だったので、やめておいて正解でした。

 

なんどもその辺りを眺めているうちに、あの新幹線のE席側から見える小さな水の流れが何本も南へと流れ、途中で水路が集まり東西へと流れていることがわかり、昔からの水田地帯だったのだろうと思いました。

 

「田毎の冨士」の水田よりは東側にある、浮島ヶ原自然公園が目に入りました。名前からすると沼地ではないかと想像しました。

浜松から三島まで東海道本線に乗った時に、あの海岸線は海に向かって小高くなっている自然堤防のようでした。

そこに旧東海道もあります。

 

ということは、富士山から流れてくる無数の流れはここに溜まってしまっていたのではないかと。

その答えを知りたくて沼津から東海道本線に乗り、東田子の浦駅で降りてみました。

 

*浮島ヶ原自然公園*

 

駅のあたりは少し高くて緩やかな下り坂を歩き、国道1号線の下を通ると目の前に公園が広がっています。

木でつくられた遊歩道がありました。

 

浮島沼

 

 明治初期まで、本市の須津地区を中心として、浮島地区や沼津市原地区にわたって大小の沼が点在しており、これらを総称して浮島沼と呼んでいました。浮島沼は柏原沼、須津沼、冨士沼、大沼、広沼などとも呼ばれていました。かつては中里の「西の池」と共に、富士講の信徒の行う冨士八海めぐりの聖地の一つである「須津湖」に数えられていました。

 この浮島沼の南には旧東海道が通り、歌川広重を始めとした浮世絵師らによって、富士山を背景にした浮島沼の風景が様々に描かれ、その面影を今に伝えています。

 沼の周囲は浮島ヶ原と呼ばれるおよそ二十平方キロメートルにも及ぶ低湿地帯となっており、湿田や、アシ、マコモが繁るアワラ場が広がっていました。沼や湿地帯では、フナやウナギ、シジミなどの魚介類がたくさん獲れました。しかし、浮島ヶ原一帯は、海面との標高差がほとんどないことから、ひとたび大雨や高潮が襲うと、冠水して湖沼と化してしまうため、作物が育たず、浮島ヶ原の新田開発は大きな課題でした。

 江戸時代を通して潮除堤(しおよけづつみ)が盛んに築かれ、耕地を逆潮(さかしお)などの水害から守る努力がされましたが、堤が決壊したり、逆に堤により水田を囲ったため、流入した泥水や海水を排水できず、稲の根腐れなどの被害が増大することもありました。

 このような中で、浮島ヶ原では昭和三〇年代まで「湿田農耕」が続けられました。腰や胸まで浸かって田植えをしなければならない湿田も多く、人々は農法や農具に様々な工夫を凝らし、稲の収穫に努めました。そこで使われていたナンバやオオアシ、タブネなどの独特の農具は、県指定有形民俗文化財となっています。

 この間にも引き続き、水はけを良くするための放水路や、海水の逆流を防ぐ港湾整備などの治水事業が多くの先覚者の手で行われ、その後の農地改良事業も加わり、現在浮島ヶ原は二千ヘクタールにも及ぶ美田に生まれ変わりました。

(強調は引用者による)

 

あの邑知潟や小貝川流域のように、田舟を使って、胸のあたりまで水に浸かりながらの米づくりだったようです。

 

東海道新幹線東海道本線に挟まれたこの場所は、私が生まれた頃には沼地だったことをこの案内板から知りました。

山側を時々新幹線が通過しているのを見ながら排水路を越え、まさに美田の道を歩いて、岳南鉄道の駅まで歩きました。

 

ああ、だから「沼津」とか「吉原」という地名なのかもしれない。

ちょっと閃いたのですが、正解はどうでしょうか。

 

 

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