堤防の斜面の途中をトラックがバックして工事現場へ土砂を運ぶスリリングな風景の場所は、地図では千貫樋水郷公園へとつながる水路がもうじきあるはずです。
見落とさないようにGPSを見ながら歩いていると、住宅の間に小さな水路に沿った遊歩道がありました。前から来た男性がそこを曲がって行きました。
あまりに小さい水路だったので絶対に違うだろうと通り過ぎたところ、次の橋のあたりに来てしまいました。
どうやら先ほどの水路が千貫樋への入り口だったようです。
引き返して水路沿いを歩いてみました。一見、両側に遊歩道があるのですが、途中で片方の遊歩道が行き止まりになるトラップがあります。おそらく地元の方はどう歩いたら良いかわかっていらっしゃるのでしょう。
水路の入口(というか水の出口)のあたりは狭かったのですが、途中は広がり水量もそれなりにあるように見えました。両側は住宅地ですが、一段、水路より高い場所に建っているので、なんだか渓谷の中を歩いているような感じです。草木も手入れされていて、枝垂れ桜やツツジが咲いていました。
途中でまた水路は狭くなり、その先に道路が見えてきました。
水路はその道路の下をくぐっています。
道路と水路の交差部分は煉瓦造りの2本のトンネルで、一本は水路、もう一本が歩道になっていておしゃれです。
くぐり抜けたところに、公園がありました。
さて、千貫樋はどこだろうと近くにあった説明板を読んでみました。
千貫樋は鴨川が荒川へ流れこむ地点に設置した荒川からの逆流を防止するために水門でした。当初の水門は江戸時代に木造で建設されましたが、数年で駆逐し、洪水の度に破壊されていたので1904(明治37)年に鴨川落悪水路普通水利組合が煉瓦造りへと全面的に改築したものです。
千貫樋の建設工事は、明治37年4月30日に着手し同年6月15日に竣工しました。また、使用煉瓦数が153,000個の大規模な工事でした。煉瓦水門として改良されてからは、荒川の洪水に対して非常に有効な土木構造物でした。
現在の千貫樋は水門としての役目を終え、荒川の旧堤防であった主要地方道57号さいたま鴻巣線の千貫樋橋として今なお現役です。
もしかしてと振り返ってみると、先ほどの煉瓦のトンネルに「千貫樋」とありました。
*水の流れはどちらに向いていたか*
たしかあの行きすぎた遊歩道の入り口では、水路から鴨川へと水が落ちていたと記憶していました。
ところが、説明では「鴨川が荒川へと流れ込む地点に設置した荒川からの逆流を防止するための水門」とありますから、当初は水の流れは鴨川から荒川へという方向だったようです。
Wikipediaの鴨川(埼玉県)の「治水」にこの千貫樋や鴨川の歴史について説明がありました。
1596年(慶長元年)に関東で発生した100年に一度と言われる大洪水が契機となり、伊奈忠次により土屋村(現さいたま市西区土屋)付近に堤が築かれて入間川が締め切られて現在の荒川に近い流れに纏められた。これにより新川合流点以南は鴨川となった。
昭和初期までは、大久保村(今のさいたま市桜区大久保)で西に折れて荒川に注いでいたため、荒川は増水した際の逆流による水害に悩まされていた。
1904年(明治37年)、近隣の村々が資金を出し合い、当時の荒川合流部付近に千貫樋(せんがんぴ)と呼ばれる関門を設置した。さらに1915年(昭和10年)には鴨川を南に延長して鴻沼川の一支流に付け替え、鴻沼川に合流させた。合流点から下流はその時まで鴻沼川のものだったが、鴨川を本流としたため鴨川と名を変えた。付け替えで切り離された旧鴨川下流は今も小河川として残り、一部は「千貫樋水郷公園」として整備されている。なお、千貫樋の名前は金一千貫文をかけても完成できなかったために名付けられた。
戦後しばらくは台風の襲来時に溢れることもあったが、のちに状況は改善されている。
現在は水の流れを逆にして、公園として整備してこの千貫樋を歴史的な遺産として残したのでしょうか。
いろいろな形、そしていろいろな由来のの千貫樋があるものですね。
それにしても、中世の関東の治水と新田開発と水争いを解決する努力がなければ今の関東平野はなかったのだろうと、この鴨川の流れからもその歴史を垣間見ることができそうです。
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