記録のあれこれ 108 伊奈氏屋敷跡

こうしてブログを書く時には、散歩で見つけたさまざまな説明板や資料を引用したりするので、自分でもちょっと膨大な知識が増えたような錯覚に陥ることがあります。

でも、まあ元々それほど記録力が優れているわけでもないので、試験前に一生懸命に暗記したことの9割ぐらいはすぐに忘れるようなレベルです。1割ぐらい覚えていればすごいかもしれませんね。

 

実際に歩いてみて初めてぼんやりと全体像が見え始め、そして知識が正確かどうか調べてみて少しずつ理解が深まり、さらにわからない部分や間違って記憶していたことがもっともっと増えていきます。

 

地図で「伊奈氏屋敷跡」を見つけた時にも、ブログ内で伊奈氏についてどこかで書いたような気がすると探してみたら、それは野火止用水の伊豆守(松平信綱)でした。全く違うではありませんか。

 

ただ、「昔、海底だった」の中で、「元荒川を流れていた荒川と入間川へ付け替える工事」を江戸初期に行ったのが伊奈忠治だったという資料を引用していました。

 

*「伊奈氏屋敷跡散策路マップ」*

 

伊奈氏屋敷跡の散策路の途中に、雨に濡れないような箱に入った「伊奈氏屋敷跡散策路マップ」(伊奈町教育委員会)があり、手に取ってみました。

 

伊奈忠次(いなただつぐ)について

 

 忠次は、天文十九年(1550)三河国(愛知県)小島城主の子として生まれた。永禄6年(1563)父が一向一揆に加わり家康に敵対したため。城を追われた。その後、家康の長男松平信康に使えたものの、天正7年(1579)の信康生害に際して三河国を出て、父とともに堺の叔父貞吉の元へ身を寄せた。

 同10年(1582)の本能寺の変を機に、忠次は小栗大六の与力となり家康に帰参し。同14年の駿府城移城に伴い家康の近宿となり五ヶ国総検地など農政・民政で活躍し重用されていった。同18年(1590)の小田原北条氏攻めでは、駿河遠江静岡県)・三河3国の道路・船橋普請、兵粮輸送、荒廃した伊豆国静岡県)の農村復旧などに功績を挙げた。

 家康の関東入国後は代官頭として、小島の旧領地と、武州小室・鴻巣領1万3千石(1万石とも)を与えられ、小室郷に陣屋を構えた(現在の伊奈氏屋敷跡)。忠次は、ここを拠点に利根川流域の治水・利水工事と新田開発、検地の実施、街道の整備に力を発揮するなど、徳川家関東支配の基盤を築いた。

 忠次は慶長4年(1599)、従五位下備前守に任ぜられ、同8年(1603)年徳川幕府が成立すると、全国の代官支配にあたるようになる。さらに、同12年家康が駿府城に移ると、将軍秀忠の政権中枢に参画し、単なる代官としての立場を超え、広範な権限を持つようになった。同15年(1610)6月に死去し、勝願寺(鴻巣市)に葬られた。

 

伊奈氏屋敷跡について 

 伊奈氏屋敷跡は、原市沼などの湿地帯に囲まれた島状の台地全体に位置し、その規模は東西約350m、南北約750mである。昭和9年3月31日に、陣屋跡は重用な文化財「伊奈氏屋敷跡」として県の史跡に指定された。

 この場所は、中世以来の名刹無量寺閼伽井某坊(あかいぼう)の屋敷があった。閼伽井坊は、後北条氏の家臣で岩付城主の大田氏の支配下にあった。後北条氏が滅び、徳川家康が関東入国した後の天正19年(1591)、伊奈忠次は閼伽井坊を明星院桶川市)に移して陣屋とした。

 忠次が死去した後、その遺領は嫡子筑後忠政・熊蔵忠勝と継がれたが、元和5年(1619)忠勝が9歳で夭折したため、領地は没収された。しかし、忠次の功績により、忠勝の弟忠隆を名跡とし、陣屋はそのままに小室郷1180石余りが与えられ、伊奈熊蔵家は旗本として再出発した。その後、伊奈氏は江戸屋敷に移ることとなり、万知3年(1660)には代官も江戸常駐となったが、蔵屋敷や御林管理など、知行地村々の支配のために一部の家臣屋敷が存続した。

 明治維新後、陣屋敷は収公ののち払い下げられ、民有地となり、各所の門も取り払われた、現在、建物の遺構は検出されておらず、陣屋内の区分は明らかではないが、当時を偲ばせる堀や土塁が各所に良好な状態で保存されている。

 

わずか30行ほどの説明文の行間を読むのには、さらに知識が必要そうで全く手も足も出ませんが、この屋敷跡がのちの見沼溜井のそばにあるということがわかりました。

埼玉県新都市線伊奈線の丸山駅と沼南駅、その名前の由来とも言えるのでしょうか。

 

そして、伊奈忠次の次男伊奈忠治がその見沼溜井をつくった、ところまでつながりました。

江戸時代初期、関東郡代であった伊奈忠治は荒川下流の治水や新田開発を目的として、現在の元荒川を流れていた荒川を入間川へ付け替える工事を行った。同時期に、利根川も流路を太平洋へと付け替える利根川東遷事業が行われており、これらの川の付け替えは、元の流域周辺の水不足を招く恐れがあった。そこで、周囲の灌漑用水を確保するため、1629年、伊奈忠治は、天領浦和領内の川筋(現・芝川に当たる)をせき止める形で、長さ約870メートル(8町)の八丁堤(八町堤とも書く。現・埼玉県さいたま市緑区の大間木付近)と呼ばれる堤防を築き、見沼溜井(三沼、箕沼溜井とも書く)を作った。

Wikipedia「見沼代用水」「建設背景」より)

 

史跡というのは、本当にすごい歴史が記録されているものですね。

 

 

 

「記録のあれこれ」まとめはこちら