本宿用水が潤していた地域と地図で見つけた窪の湧水を見ることができたので、今回の散歩の2日目の計画は達成されました。
ここからは、三島市内を南北に流れる数々の水路のどれかを歩き、そのあと体力が持てば韮山反射炉のあたりを歩いてみようかと考えていました。
2019年に、父の狩野川の記憶を探してこの三島から伊豆を訪ねた時にも時間が取れませんでした。
*三島市内を横断する水路沿いを歩く*
窪の湧水は、一日中その水を眺めていたいような場所でした。
その周囲の起伏のある場所にも、少し前までは水田地帯だったと思われる住宅街があり、そこにも用水路に水が流れています。
南北へと主要な水路があり、さらに東西に小さな分水路があるようです。
その東西に流れる小さな水路を辿ると、2019年に訪ねた境川・清住緑地の北側へと行けるようなので、歩いてみました。
途中の児童公園のそばには分水路があり、水が流れてくる方向へと歩くと、なんと水路は民家の敷地内を通っています。
現在でもまだまだ水が身近にある生活のようで、羨ましい限りです。
古い家が残り、車が一台スレスレに通るぐらいの細い道を境川・清住緑地の方向へと向かうと、「千貫樋」という交差点がありました。
「樋」とありますから、水に関係するのかと期待して周囲を眺めてみましたが、よくわかりません。
まずは境川・清住緑地に降りてみようと道を探してみたのですが、谷津の地形を下って緑地に入る方法がないので諦めて、また先ほどの道に戻りました。
*千貫樋*
道路の反対側に説明板があるのが目に入りました。
千貫樋(せんがんとい)
伊豆・駿河国境、境川に掛けられてある樋で、長さ四二.七m、幅一.九m、深さ四五cm、高さ四.二mである。
創設については諸説があるが、天文二十四年(一五五五)今川、武田、北条三家の和睦が成立した時、北条氏康から今川氏真に聟(むこ)引出物として、小浜池から長堤を築き、その水を駿河に疎通させたというのが一般に認められている。
この疏水により清水町の新宿、玉川、伏見、八幡、長沢、柿田の耕地約一三〇ha(旧高二百石)が多大の恩恵を受けるに至った。
樋は初め木樋であったが大正十二年関東大震災の際、崩落したので現在の鉄筋コンクリートに改めた。千貫樋の樋名については、
一、架設が巧みなため銭千貫に価する。
二、この用水が高千貫の田地を潤している。
三、建設費が銭千貫を費やした。
等が命名の由来と伝えられている。
清水町教育委員会
一瞬、この説明板は何を指しているのだろうと思うほど気づかないような、目の前の住宅の隙間に小さな川が流れ、その上にコンクリート製の橋のようなものが見えました。
100mほど東へ歩くと寺院への道があり、水が滔々と流れるコンクリート製の樋が見えました。
Wikipediaの千貫樋の概要には、「稲作期が終わると、三島市加屋町内に設置されている水門によりせき止められるため水は流れない」とあります。
ちょうどこの説明板のあるあたりが「加屋」だったのですが、もう少し下流に水門があるのでしょうか。
それにしても湧水のあふれる三島周辺なので、どこでも水田はたやすく開墾できるのかと思っていましたが、600年も前に楽寿園の小浜池から木樋で水を引いていたとは。
コンクリートの歴史を知らなかったら、味気ない近代の構造物があるぐらいで通り過ぎていたかもしれません。
そしてあの境川・香住緑地の中を流れるのが、駿河と伊豆の国境の川という意味であったことも、この小さな説明板で知りました。
街中、そこかしこにまだ水の歴史を知ることができそうです。
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