水の神様を訪ねる 62 漁民と旅人の神社、小倉の瑜伽神社

安部山の水神社を地図で見つけたときに、安部山公園の方から小さな流れが東水町の分水嶺からの流れと合流して竹馬川になり周防灘へと流れ込んでいたので、この辺りの治水の神様だと想像していたのですが全く違う御由緒でした。

 

せっかくなので、安部山からの流れも見てみようと水神社の東側へと歩き始めました。

じきに住宅の間にコンクリート張りの急峻な水路があり、安倍山へ向かって道はどんどんと上り坂になっていきました。今でこそ住宅地として拓けているけれど、車がないと生活できそうにないアップダウンです。そしてこのコンクリートの頑丈な壁がなければ、おそらく住宅地にはできなかったことでしょう。前日歩いたセメントの街の歴史を思いながら歩きました。

 

小倉南区が一望できるような安部山公園から今度は下り坂を歩き、国道10号線で小倉駅行きのバスに乗りました。以前写真で見たことがあるロングバスが通過していきました。乗ってみたかったのですが、快速だけの路線のようです。

 

紺屋町バス停で下車し、小文字通りを小倉城の方向へと歩くと新旦過市場では現場検証の作業がまだ続いていました。

そこから100メートルほど先にある神社を目指しました。

 

 

*瑜伽(ゆが)神社*

 

神嶽川が紫川に合流する手前に、瑜伽神社があります。

読み方もわからず初めてみる神社名でしたが、小倉城の前の川が合流する辺りにあるので水の神様かもしれないと思い、訪ねてみることにしました。

 

ビルの間にありましたが、大きな木が2~3本あるので神社だとわかりました。

 

瑜伽神社後由緒

 

一、御祭神

   倉稻魂神(うかのみたま)

   大国主神

   事代主神

 

一、後由緒

 北九州市小倉北区船場町鎮座の瑜伽神社は遠く奈良朝元正天皇の御大養老二年の創始と云われ御社名を蛭子神社と申しておりました。

 此の川は紫川と神岳川の合流点にあり、小倉の街の発生の地でもあり規矩の高浜浦と呼ばれたところであります。

 奈良朝以来、太宰府と結ぶ宿駅として、交通の要地であり万葉にある

 豊国の規矩の長浜行きくらし

   日の暮れぬれは妹をしそ思ふ

の歌によって明らかであります。

 此の地は当時規矩の高浜浦として漁民の居住するところで漁民及び旅人の守護神として蛭子神社が祀られ土地の崇敬を集めて居りました。後、仏教の伝来に伴い全国各地に寺院の建立を見るに至り、慶長年中、細川忠興小倉城改修の砌、高浜浦は現在の長浜の地に移転することとなり、当社に隣接して蓬莱院なる寺院が建立され、寺院の境内神社の如き形となり又稲荷信仰と結び付いて、倉稻魂神を合祀し、社名も瑜伽神社と変わりました。

 其の後、明治六年神仏分离の際、一社として独立し現在に及んで居ります。創祀以来、祭祀は厳修され、春秋二季の祭典は今日に至るまで絶ゆる事なく続いております。然し太平洋戦争の終末と共に人心混乱致しまして、この由緒ある神社も次第に荒廃しこの侭に放置するに忍びない現状に至りましたので町内居住民を主体として崇敬者相寄り寄進を仰ぎ、昭和四十六年に社殿並びに拝殿を完全修復し今日に至って居ります。

       昭和四十六年六月  神社総代

 

 

小倉城を目の前にして運河のような神岳川と紫川の合流部にあるので、治水の神様かと想像していましたが、これまた想像とは全く違いました。

 

「漁民及び旅人の守護神」

漁民の守護神なので、水の神様とも言えそうですね。

そして、無事に二泊三日の遠出を終えることができそうな時にふさわしい場所に出会いました。

 

それにしても、私が小学生の頃というのはあの戦争の後の人心混乱が社会にまだまだあった時代だったのですね。

散歩をするようになって、そういう記録が街の中に残されていることを知りました。

 

 

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