「芝原上水」と「芝原用水」の二つの名前が出てくるのですが、「上水」はおまかに江戸時代の表現だと想像がつくのですが、「芝原用水」と呼ばれるようになったのはいつ頃からなのか気になっていたところWikipedia「芝原上水の用排水化」で整理できました。
1868年(明治元年)、三の丸・四の丸の堀が埋められ、その後も外堀や中堀が次第に埋められる。市街地の水路が改修が行われ、光明寺用水、四ヶ用水が開設され、芝原上水は灌漑用水としての役割を担うことになる。1924年(大正13年)8月、福井市に上水道が敷設されたことにより、芝原上水は上水としての役割を終え、完全に用排水化する。
九頭竜川資料館を出て、芝原用水取水口と幹線水路が暗渠になるところまで歩いたあと、かつての芝原上水の取水口があるらしい地域へと向かいました。
*芝原用水取水口から松岡へ*
国道416号線を渡ると山へ向かって上り坂になり、住宅や田畑がひな壇状になっている集落に入りました。
つきあたりにえちぜん鉄道の線路があり、ここからは山肌に沿って線路が続く区間です。
昔ながらの木の格子窓がある住宅が残る静かな道を歩くと、一段高い場所に志比堺(しいざかい)駅がありました。
Wikipediaの「芝原上水」の「経路」で取水地として書かれている場所ですが、すぐ下を流れている九頭竜川のそばへはとても行けそうにない場所でした。
このあたりから南西へと山肌が曲がり、それに沿って平野が開けて見えるようになりました。
国道から川のそばの地域へと降りる道があり、そちらを歩いてみました。眼下に九頭竜川が見えるような場所ですが、川のそばへと行く道はことごとく行き止まりになっています。川を見たくて碁盤の目のような道を上ったり下ったりしてみましたが、なかなか崖の下をのぞきこめる場所には近づけませんでした。
風はおさまりましたが日差しが強く、えちぜん鉄道松岡駅で電車に乗ってしまおうかと思いましたが少し先に鉄橋が見えてきたので、もう少し歩くことにしました。
鉄橋の道は県道110号線で交通量が多く、とても鉄橋のそばへ歩けなさそうです。反対側に古い石碑がありその先に古い橋があるのが見えました。近づくと読めなかったのですが大正15年に建てられた橋の記念碑のようです。近くに五松バス停がありました。
県道の鉄橋に沿って古い橋が残っています。
そこを渡ると橋の下に水道管らしきものが通り、どうやら崖の下にある浄水施設からのようです。
さらに橋を歩くと暗渠になっている芝原用水が通っていました。住所は松岡椚(まつおかくぬぎ)のようです。
九頭竜川と暗渠に挟まれた場所には水田があり、両側に住宅が建っていました。
その先には悠々と九頭竜川が流れる美しい風景が広がっていました。
かつての芝原上水、あるいは橋ができた頃はどんな風景だったのでしょう。
*観音町駅まで水路沿いに歩く*
コンクリートで固められた暗渠はちょっと想像と違いましたが、芝原上水の始まりのあたりを見ることができました。
先ほどの橋の記念碑まで戻ると南西へとまた崖のような場所が続き、下側には水路があるのが見えました。芝原用水からの分水路のようです。
その下側を次の駅まで歩いてみることにしました。
崖沿いに水路が続いていて、比較的新しいおしゃれな住宅が建ち並んでいました。水路が開渠から暗渠になりその上が歩道になってその先の水田地帯へと水が流れているようです。
かつてはこの崖の下も水田地帯で、崖の上に集落があったことが想像できる風景です。
ゆるやかに坂道を登ると竹藪があり、古い家屋と畑が残る一角があり、静かな風が吹くなかに観音町駅がありました。てっきり無人駅かと思ったら、駅員さんが外の掃除から戻ってこられました。
そうそう、えちぜん鉄道は今も列車内に車掌さんがいらっしゃって切符の受け渡しなどをされています。時代に呑み込まれずに、人を雇うことを大事にされている会社なのでしょうか。
九頭竜川の左岸の芝原上水と高台にある昔からの街並みを実際に見ることができて、満足してえちぜん鉄道に乗りました。
本当は全ての芝原上水を歩いてみたいのですが、直線距離でも8kmはありますから今回はいったん電車に乗って次の区間に向かいました。
「散歩をする」まとめはこちら。