米沢のどの辺りを歩こうかと地図を眺めていたら、米坂線がまるで水田地帯との境界線かのようにその南側と北側を分けていることに気づきました。
南側に水田地帯が広がっています。
最初に目に入ったのが、笹野町と泉町の間にある水色の矢印のように描かれている場所で、次に南米沢駅の南側の天神脇下にある溜池のような場所とそのそばの福田という地名でした。
この辺りを歩いてみようと計画ができたのですが、山形新幹線が30分遅れて到着したので、列車の中でここは無理そうと計画を変更しました。
米坂線北側にも福田町があって、地図ではすっぽりと住宅がない場所があります。水田地帯のように見えますから、ここを訪ねることにしました。
*最上川を渡り、福田を歩く*
駅から南へと向かって歩くこと十数分、住宅地が途切れて最上川右岸の低地に水田が広がっているのが見えました。
車は多いのですが、誰も歩く人のいない道です。道路沿いには用水路があって、水の音が聞こえてきます。地図で辿ると、最上川から取水された水のように見えます。
最上川にかかっている橋に向かって道路が上りになり、橋を渡りました。
上流には米坂線との間に石積みの堰が見えます。ここから取水された水だったのでしょうか。
堤防周辺も整備されて、散歩をする人やゲートボールをする人の姿がありました。
何の花でしょうか、黄色と橙色の花が咲き、土手のあたりからは初夏のかぐわしい香りがします。
左岸側の堤防を少し上流へと向かって歩き、そこから堤防内の街へと入りました。
畑があり、あちこちに水路が張り巡らされています。「福田南タウン」と表示があり、真新しい住宅地になっていました。その向こうに水田地帯が広がっています。
稲の香りがして、ヤギもいました。
周囲より少し窪んだような場所でしょうか。
その窪地のやや高い場所が、水田から住宅地になっていったように見えました。
行き止まりになったり迷いそうな道が多いのも、この窪地を囲んでいるからかもしれませんね。
大きな道に出て道なりに歩くと、県立米沢商業高校の方向から大きな水路が流れていました。よくよく見ると、南から北へと流れる最上川や掘立川とは逆方向の流れで、先ほどの水田地帯を潤しているのでしょうか。
そこから西へと曲がると、住宅地やお店そして酒蔵のある地域場所になり、「紺屋町」としてこんな表示がありました。
旧町名由来「紺屋町」(現町名太田町3丁目、本町1、2、3丁目)
町名の由来は、その名のとおり紺屋すなわち染物屋が多くあったことに由来する。
染物にはきれいな水が必要で、用水路の上流部に町割りされた。文化八年(1811)の町割図には七十八軒の住人名が記載される。 米沢市
こうしたヒントが街角にあるだけで、風景が違って見えますね。
行き当たりばったりの散歩でしたが、水路の音と水田の香りに満足してバス停に向かいましたが、ちょっと欲を出して一宮神社にも立ち寄りました。
ここにも水路があります。掘立川からの取水だろうかとのんびり考えていたら、バスの時間を勘違いしていることに気づき、慌ててバス停に向かって走りました。
9時52分のところ、遅れて54分にバスが到着したおかげで列車に間に合いました。
これに乗れなかったら10時29分の米坂線を逃し、次は12時16分ですから1日目の計画が大きく変更になるところでした。
さてこうして風景を思いながら書いていたら、もしかすると最上川と掘立川の間にその流れとは逆行する水路の先にある「福田」のあたりの窪地が、元々は「米のなる沢」だったのではないかと閃いたのですが事実は如何に。
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