米のあれこれ 68 奥羽山脈を越えて水を得た田んぼ

2019年5月に八郎潟を訪ねたときに、東北新幹線が何度も阿武隈川を越えることが印象に残りました。ゆったりと蛇行する美しい流れに、上流から下流を見てみたいと機会があれば歩いています。

ほんの数年前は最上川と阿武隈川を勘違いするほど東北の河川を知らなかったのですから、思えば遠くに来たものですね。

 

須川の歴史から、まさかその阿武隈川の水が奥羽山脈を越えて最上川とつながっているとは思いもよりませんでした。

 

上山市生居住及び楢下地区」(かみのやましなまいおよびならげちく)

どこだろうと地図を見ると、山形新幹線の東側に広がっています。

「かみのやま温泉駅のあたりから広々した美しい水田地帯が広がり」と書いたのですがそれは西側の風景で、航空写真で確認すると反対側にはさらに広大な水田地帯が広がっていたようです。

 

 

*横川堰*

 

地図を眺めてみましたが、どのあたりから取水してどこへと流れているのか全く手掛かりがありません。

横川堰で検索したら、上山市のホームページに説明がありました。

 横川堰は、南蔵王山系を水源とする宮城県の横川(白石川支流)から取水し、上山市の主に東(あずま)地区の水田へ灌漑している非常に重要な利水施設であります。また、山岳地帯の県境を越えた灌漑水路としては全国でただ一箇所の貴重な施設となっております。

 

小学生の頃に「日本列島の背骨」と習った奥羽山脈を貫くのですから、てっきり現代の施設だと思ったら違いました。

 この横川堰開発の歴史は古く、江戸時代まで遡りますが、現在の横川堰が造られるまでには、先人達の並々ならぬ苦労と努力があり、ようやく明治12年に山形・宮城両県令の了解により水利権が認められ、明治13年から始められた堰掘り工事も明治14年には完成し、現在の横川堰の原形となる堰の通水が開始されております。その後、水路の改修工事や災害復旧工事などと併せ、慣行水利権から許可水利権への移行などが行われ、現在の隧道やコンクリート製の水路に改修されてきております。

 

さらに「横川堰ものがたり」に詳しく説明がありました。

 横川堰は、宮城県苅田郡七ヶ宿町において1級河川阿武隈水系横川から取水し、途中国有林及び宮城県林を通過し、県境を越えた後に1級河川最上川水系須川支流萱平川に放流される、延長3キロmの山腹水路である。

 

Apple社の地図は本当に楽しいのですが、小さな川だと、名前をクリックしても別の県の住所になっているとか、人里離れれば離れるほど描かれているものが少なくなったり不正確になるので、そこはちょっと残念です。

横川堰についても地図を拡大したり縮小したり、車酔いのような気持ち悪さと格闘しながら探してみましたが、川も見つかりませんでした。

どのあたりなのでしょう。

 

 堰の開発の歴史は古く、「寛政6年に菖蒲村(現上山市)の利八というものが、大平(現在の上山市菖蒲から古屋敷に至る県道沿い)の開田を思い立ち、お上に願い米沢領預り所、竹の森にいる兵蔵というものを雇い、横川から一枚岩、久保倉山を通して水通しを行い、米等の援助を受けた」といわれ、これが横川堰開発の最初と記録されている。

 

江戸時代から開削が始まり、明治時代には県境を越える隧道になったものの「漏水」も多かったようです。

 このような苦難をのりこえ通水を見たわけであるが、約3キロメートルの山腹水路は屈曲が多く、勾配がない区間が存在、谷側への漏水が発生しているなど、「農民の通水意とならず」、受益者の憂慮するところであった。

 

「用水の確保と円滑な通水」は現代に入ってから実現したことが書かれています。

計画が持ち上がり、第1次改修工事を昭和33年から昭和38年まで上山市営事業として、第2次改修工事を昭和50年から昭和53年まで山形県営事業として実施し、屈曲区間に隧道を設置して水路延長を短縮したほか、コンクリート水路により漏水防止を図り、現在の横川堰の態様を整えるに至っている。

 

 

全国各地の水田が健在の風景には、それぞれの地域の歴史があることをまた知りました。

 

 

*おまけ*

この地域の小学生は社会科の校外活動として横川堰を見学する機会があるようです。

 上山市は、多くの苦難を乗り越え用水を確保してきた注水水利権を市の歴史的文化的財産と考えており、小学校の社会科の学習教材としても取り上げ、校外活動を行うなど、後世に引き継いでいかなければならない財産と位置付けております。

 

自分が住んでいる場所がどんなところか知る機会があるなんて、現代の小学生がうらやましいですね。

 

 

 

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