行間を読む 94 平城京と瀬田川

Wikipedia平城京の「その他」の最後にこんな説明があり、あらためて学校で学ぶ「歴史」というのは年表のような大雑把なことがらだけだったのだと、とても知り尽くすことのできない壁の前に立った気持ちになりました。

平城京遷都に際しては田上山(たなかみやま、現在の大津市)のヒノキを大量に伐採して用いられた。このため田上山ははげ山となり、江戸時代から現在に至るまで緑化が続けられているがいまだに植生は回復していない。 

 

熱帯雨林の10年に書いたように、私が一時期住んでいた東南アジアのある地域は、見渡す限り裸山が続いていました。誰も植林をする余裕がない内戦状態の時期でしたが、10年もすると木が育ち始めていました。あるいは、美しい森と清流の紀伊半島をはじめ、日本各地の山から木がなくなった時期があったことが信じられないほどです。

 

ところが、平城京の時代に伐採した山に、今も緑化が続けられているなんて。

 

*大戸川の近代砂防工事*

 

冒頭の文章も「田上山(現在の大津市)」ということで、大津の記載がなかったら読み飛ばしていたかもしれません。

奈良から離れた大津なのに、どのあたりなのだろうと興味が湧きました。

Wikipedia田上山の「概要」に以下のように書かれていた箇所で、以前の記憶とつながりました。

太古の昔は檜の枯木が鬱蒼と生い茂っていたが、藤原京造営やその後の平城京遷都や寺院の造営などに際して、瀬田川、木津川を利用した水運による利便性と山中の木々の良質さから田上山のヒノキを数万本伐採していたとされている。このため田上山ははげ山となり、雨が降るたびに大量の土砂が瀬田川に流れ込み、大規模な氾濫を繰り返してきたため、田上山の関津狐ケ谷に谷止を計画し設計したオランダの技術者デ・レーケや、防砂技術の集大成「水利真宝」を著した市川義方、ヒメヤシャブシアカマツなどを植林し緑山郡長と慕われた松田宗寿など、いろいろな人が田上山の砂防に取り組んできた。この一連の土木事業には地元の人々も参加したが、大正期の地元民の手記には、「砂防工事とワラジをはいて肩の痛い芝運搬と、天びん棒の下で目をむいて数年間」という言葉が残されており、当時の作業の過酷さが伝わってくる。江戸時代から現在に至るまで緑化が続けられているが、1992年時点での被植率は61.8%である。

 

瀬田川でのデ・レーケといえば、「琵琶湖・淀川 里の川をめぐる〜ちょっと大人の散策ブック〜」に書かれていた大戸川の近代的砂防工事です。

ブログでも紹介したはずなのに、奈良をまわって初めて実際に知識がつながりました。

 

それにしても、都を造るための伐採から十二世紀もあとに、「天びん棒の下で目をむいて数年間」という重労働によって砂防工事が行われていたとは。

 

 

まるで熊手のような形で小さな川が合流して大和川になる場所を地図で発見したことが、1月と3月に訪ねた瀬田川の歴史に繋がりました。

 

 

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