水のあれこれ 273 二つの吉野川

1990年代に徳島の木頭村を村井さんたちと訪ねた帰りに、私はフェリーで和歌山へ出て帰京しました。

 

当時那賀(なか)川上流の木頭村もダム問題がありました。

那賀川沿いに村井さんと仲間で上流へと向かい、大きな杉林と美しい支流が流れる静かな村に一泊しました。

特産品を作ってダムに依存しないで村を支える方法を探している当時の村長さんと、ここでも静かに語っていた村井さんの姿が昨日のことのように思い出されます。

 

いつかまた徳島のあの美しい川の流れを歩いてみたいなと地図を眺めているうちに、吉野川を中心に東西へと平野が長く続いている地形に目がいくようになりました。

そして紀伊水道を隔てると和歌山の紀の川が東から西へと対称的に流れていて、まるで徳島と繋がっているかのようです。

そして紀の川を上流へと辿ると、県境を超えてこちらも吉野川であることに気づきました。

 

私にとっては世紀の大発見だったのですが、検索すると「2つの吉野川」についてちゃんと書かれていました。

 

中国四国農政局のサイトに「コラムー2つの吉野川」があります。

四国の吉野川と奈良の吉野川和歌山県内に入ってからは「紀の川」)は、名前も同じですが、その特徴も双子のようによく似ています。四国は瓶ヶ森(かめがもり)、奈良は大台ヶ原(おおだいがはら)という日本でも有数の多雨地域を水源に持つこと、まず北に向かって流れ、中央構造線の谷間に出会うとほぼ90度向きを変えること、向きを変えた後は、中央構造線に沿って紀伊水道(きいすいどう)までまっすぐに流れていくことなど、ざっと挙げるだけでも多くの共通点を持ちます。

 

両河川の河口部には、徳島平野和歌山平野がそれぞれ広がっていますが、いずれも雨の少ない気候に関わらず、水源地に豪雨が降るたびに、一挙に押し寄せる洪水に苦しみ続けてきました。また、川の北側に聳える山地を越えたところには、それぞれ讃岐(さぬき)平野、大和平野という大平野がありますが、こちらは恒常的な水不足に悩まされ続けてきました。

 

以上のように地形的、歴史的にもよく似た2つの吉野川は、いずれも戦後、総合開発計画区域に指定され、調査が行われることになります。結果、四国は四国4件が、奈良は和歌山との2県が行政区分を超えて治水・利水・分水を行う計画が決定し、ほぼ同時期に「香川分水(昭和49年(1974))」、「吉野分水(昭和51年(1976))」という大事業が実現しています。

 

(強調は引用者による)

 

 

 

あの山の辺の道の道路暗渠記念碑のそばを流れていた吉野川分水いにしえより水に乏しい奈良盆地を潤し、かたや徳島の吉野川の水も山を越えて香川分水として使われているようです。

 

東西対称に見える地形がおもしろいと2つの吉野川を検索したら、また水のさまざまな歴史を知ることになりました。

 

 

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