3月中旬の吉野川東西分水と東大寺二月堂、そして若狭のお水送りを訪ねる散歩から帰宅してすぐに、次の計画ができました。
というのも3月中旬であれだけ国内外の観光客が増えて、列車や食堂でも大きな声での会話が復活したので、じわりじわりと次の波がくる前にもう一箇所行っておこうと思いました。
「次の波」がどんな形での感染なのか全く予想もつかない怖さもありましたし、ようやくマスクや換気そして距離を保ちながらの旅のスタイルができたのにそうした対策がいきなり中止され、混雑する新幹線や特急に乗るのが不安になってきました。
新年度早々ならさすがに観光客が減るだろうと、4月初旬に次の計画を実行したのでした。
今年は奈良と徳島の両方の吉野川を訪ねようという計画はありましたが、1月に岡山駅から高松や高知、松山へと頻繁に特急や快速があるのをみたら無性に四国へ行きたくなりました。
地図を見ると西から東へと真っ直ぐ吉野川が流れ、河口付近では旧河道と思われる蛇行した水色の線が入り組んでいます。航空写真に切り替えるとJR鳴門線の南側に水田地帯が広がっています。ここをぜひ歩いてみたいとずっと思っていました。
そして1990年代後半に村井吉敬さんたちと木頭(きとう)村を訪ねたのですが、那賀(なか)川もいつかもう一度訪ねたいと思っていました。
上流までは時間が足りないので今回は下流のあたりを歩いてみたいと思って地図を眺めると、蛇行しながら山あいから流れ出てきた那賀川がまっすぐに流れを変えるあたりに取水堰と用水路らしき水色の線があります。
扇状地の左岸側の水田地帯を潤す大事な用水路のように見えます。
ぜひここを歩いてみたい。どんな歴史があるのでしょう。
那賀川の河口近くで桑野川が合流したところに阿南市があるようです。那賀川はどんな街を生み出してきたのか見てみたくて、一日目はここに一泊することにしました。
二日目は阿南市から海沿いを路線バスで徳島まで行き、吉野川流域を歩きます。
最初は穴のあくほど地図を眺めてもどこをどう歩けばよいか見当もつかなかったのですが、川合や堰や用水路あるいは城址や神社を拾い出すうちに、吉野川の流れが見えてきました。
第十堰を訪ね、そのあと河口地域を南北に通っている路線バスで複雑な川の流れをみながら鳴門へ向かい、鳴門からはJR鳴門線で車窓から水田地帯を見て勝端駅で下車。旧吉野川沿いの勝端城址からまた河口地域をバスでぐるりとまわって徳島駅へ戻り一泊。
三日目は阿波池田まで特急の車窓から吉野川を眺めて、そこから香川県の琴平駅へ。
山を越えると二つの県の地図は水色の形や流れが歴然と変化します。
琴電沿線に大小さまざまな溜池がありますから、それを見てみよう。
豊かに水が流れる吉野川から水田地帯が広がる徳島に対して、溜池を必要としさらに1974年(昭和49)に吉野川から分水された香川県の水田地帯の歴史の雰囲気を見ることができたらと思いました。
香川用水ができる少し前の1960年代に、小学生だった私は家族旅行で四国を回りました。当時はまだ瀬戸内海を渡るのは宇高連絡船だったので、フェリーに乗って四国に上陸しました。
父の運転する車で大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)や桂浜そして松山へとあちこちを見た記憶が断片的にあります。
半世紀前、四半世紀前の記憶をつなぎながら、念願の四国の散歩です。
ということで奈良のお水取りから三週間後、4月初旬に徳島と香川へと出かけました。
しばらくこの記録が続きます。
「散歩をする」まとめはこちら。