水のあれこれ 140 いにしえより水に乏しい土地柄であった

今回の散歩では大和川に沿って奈良から大阪まで溜池が多い場所はどんなところなのだろうと、この目で見ることも楽しみにしていました。

 

溜池といえば天水が少ない場所に造られると思っていたのですが、車窓からの風景では、豊かな川の水に圧倒され、法隆寺あたりの水田が広がる美しい風景に七世紀ごろからこんな風景なのだろうとイメージしたほどでした。

 

ところが荒池に行き、「奈良はいにしえより有力な河川に恵まれず水に乏しい土地柄」という説明を読み、やはり溜池は水を貯めるためであったことがわかりました。

 

平城京の「その他」にもこう書かれていました。

桓武天皇が、平城京から長岡京へ遷都を決めた理由として、平城京の地理的条件と用水インフラストラクチャーの不便さがあった。平城京は大きな川から離れているため、大量輸送できる大きな船が使えず、食料などを効率的に運ぶことが困難であった。比較的小さな川は流れていたが、人口10万人を抱えていた当時、常に水が不足していた。生活排水や排泄物は、道路の脇に作られた溝に捨てられ、川からの水で流される仕組みになっていた。しかし、水がほとんど流れないため汚物が溜まり、衛生状態は限界に達していた。なお、平城京が模範とした長安も、大運河から離れていることによる水運の不便さが一因となって五代以降洛陽・開封などに首都の地位を奪われている。

 

40年以上前に、平城京から長岡京への遷都の理由をどう習ったか思い出せません。

長岡京の説明の中で「長岡京の近くには桂川宇治川など3本の大きな川が淀川になる合流点があった」と書かれていますが、あの場所だとつながりました。

 

*奈良のため池はどのように変化してきたのか*

 

平城京は水が乏しかったとなると、あの地図上のたくさんの溜池はいつ頃からできたのでしょうか。

「奈良、溜池」で検索したら、「奈良盆地における溜池灌漑の成立過程と再編課題」(宮本誠氏)という研究ノートが公開されていました。1984年(昭和59年)当時、奈良県農業試験場経営課に勤務されていた方のようです。

 

律令体制ができる前後は、まだ古墳の周濠や池など小規模だったようです。中世に入ると、溜池よりは河川灌漑が取り入れられていたことが書かれています。

中世奈良盆地の灌漑は、『大乗院寺社雑事記』を引用した宝月の『中世灌漑史の研究』ならびに中村の『中世農業史論』に詳しく分析されており、その多くの事例は河川灌漑によるものである。両者によると、興福寺領内の能登・岩井川、大川、穴師川、西門川などの諸河川の用水は、いずれも領主興福寺の直接間接の統制下にあって、番水により用水を分配していたとしている。

現在の地図では、大和川の支流のさらに支流のようにみえる小さな川です。

 

著者によれば、「造池事業は、文禄から延宝の両地検間で盛んに行われたことがわかる。その築造年次は、1600年からわずか50年の短期間に集中している点が注目される」としています。

ほとんどの皿池は近世に、中でも中期までに増拡張されたことが明らかになった。その築造時期は、前期『延宝検地帳』の分析で明らかなように近世初期、とくに17世紀前半に集中したと推測が可能であろう。

 

さらに、明治期にも「溜池新設の1つの小ピーク」があるとしています。

荒池もその一つだったのでしょうか。

 

「近・現代の用水確保でもう1つ特記すべきこと」として大規模水利開発について書かれていました。

 開発された主な新水源は、つぎの4つがある。白河溜池(灌漑面責554町)は大正15年着工、昭和8年竣工した。倉橋溜池(同1,520町)は昭和14年着工、同32年完成。斑鳩溜池(同534町、現在185ha)は昭和15年起工、同32年完成。そして吉野川分水事業(同10,882ha)は昭和27年起工、同51年国営工事が完了した。この4つの事業は、奈良盆地のほぼ全域に用水を補給した。いずれも旧来の水利慣行はそのままとし、新しい用水の追加であった。

 

いつか奈良の水の歴史を歩いてみたい。地図を穴があくように眺めています。

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら

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