2016年ごろから都内の川沿いや運河沿いを歩くようになったのですが、最初の頃は上流から下流へと地図をたどるだけでその複雑さに圧倒されていました。
最近ではその流れ方から、「これは旧河道だろう」「これは運河だろう」「これは幹線水路か排水路だろう」と見当がつくようになりました。
ところが「ひび割れたよう」に水色の線が複雑にある徳島平野の河口付近は、もう何がなんだかわかりません。
旧吉野川はそのまま河口へ流れ込むのではなく今切川と別れ、その間にはいくつもまた蛇行した「旧河道」があります。そして旧吉野川と今切川は離れては近づいて、くびれたような場所からまた海へと広がっています。
JR鳴門線の北側の丘陵から流れ出てきた新池川は途中で撫養川と合流して小鳴門海峡へと流れ込んでいるように見えるのですが、その撫養川をたどると南側で旧吉野川と河口付近で合流しています。
運河のような川なのでしょうか。だとするとどちらへと流れているのでしょう。
*洪水時の「自由蛇行」*
地理の専門用語がわからない私には「ひび割れたように川が網の目のように流れる」ぐらいにしか表現できないのですが、「地形・地質情報ポータルサイト」にこう説明されていました。
「四国三郎」と呼ばれる「吉野川」は、石鎚山系瓶ヶ森の南側を源とする、全長約194kmの堂々たる大河です。途中「穴内川」、「銅山川」や「祖谷川」などを合流するので、河口には四国で最も面積の広い「徳島平野(沖積平野)」が形成されました。
広大な「谷底平野」を持ち、下流部では洪水時の「自由蛇行」により、幾通りもの流路が存在したことがわかっています。
歩いてみたいと惹きつけられた場所は、洪水時の「自由蛇行」によってできた地形と表現するようでした。
「自由」と言っても、なんだか引きずり込まれるような怖さをひび割れたような地図に感じたのは洪水の跡だったからだったのかもしれませんね。
ところで、現代ならこの地形を空撮や宇宙から地球を測る技術によって正確にわかるのですが、ヨハネス・デ・レーケが吉野川を視察した1884年(明治17年)ごろはこの吉野川の「自由蛇行」によってできた地形をどうやって把握したのでしょう。
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