米のあれこれ 51 「稲敷の干拓地」

稲敷市立歴史民俗資料館で購入した資料に、「稲敷干拓地」の説明が書かれていました。

 

 戦前の干拓事業の事業主体は多額の資金が用意できる個人がほとんどであり、戦時体制による資源・労働力不足で事業が停滞しがちだった。戦後になると外地からの引揚者、農村の次男三男救済、食糧難の解消などのため干拓は急速に進み、法改正などもあり国や県がその計画を代行事業として継続することが主流となった。

 霞ヶ浦一帯には戦前・戦後にまたがり多くの干拓地帯がある。市内にも大規模な干拓地域が複数あり、平で広い美田が広がっているが、その干拓事業には先人の多くの時間と労力がかけられた末、完成している。

 

 

*「稲敷市内の主な干拓」*

 

八つの干拓地の説明がありました。

 

<甘田入(あまだいり)干拓

 大正10年(1921)に竿代文蔵(須賀津)が起工式を行ったが着工は遅れ、大正15年(1926)に植竹庄兵衛が工事請負人となり昭和7年(1932)に一応の完成を見る。

稲敷市の北部の霞ヶ浦沿岸のあたりに「西の洲甘田入土地改良区」とあるので、そのあたりでしょうか。

 

<野田奈(のだな)川干拓

 昭和6年(1931)に関谷友吉を中心として霞ヶ浦公有水面埋立の免許を得て翌年に工事着手。昭和10年に三度の洪水にみまわれ堤防が崩れるなどするも、関谷友吉にちなみ字名に

「関谷」と命名された地名が残る。

野田奈川は見つかりましたが、関谷がどのあたりかはわかりませんでした。

 

<江戸崎入(えどさきいり)(稲波いなみ)干拓

 榎が浦と呼ばれた入り江を干拓したもの。昭和14年(1939)に事業家の植竹庄兵衛が着手。昭和23年には県の代行事業に、のちに国の代行事業となる。完成したのは昭和32年(1957)だが、それ以前の昭和20年代から入植者の受け入れを行っている。

稲敷の稲波を訪ねた時も、実はなんと読むのか正確には知らなくて、「いななみ」かと思っていました。学芸員さんに「いなみ」と教わったのでした。

 

<本新島(もとしんじま)干拓

 昭和17年(1942)に斉藤藤次郎が埋立免許を取得しているが着手されないまま戦後となり、昭和20年(1945)に株木政一が埋立免許を得る。その後国委託事業隣、昭和23年(1948)以降は県が代行して干拓を進め昭和32年(1957)に竣工する。

歴史民俗資料館があった八千石の北東に「本新」という場所があるので、この辺りでしょうか。

 

これ以外に、「大重地区(昭和38年、1963年)」「余郷入(鳩崎)(昭和41年、1966年)」「西の洲(昭和42年、1967年)」「羽賀沼(昭和48年、1973年)」があるようです。

 

あの美浦(みほ)トレセンの近くで見た馬の蹄鉄のような形の水田地帯は昭和41年に完成した干拓地だとわかりました。

 

 

*「最後の干拓地」*

 

Wikipedia「霞ヶ浦」の歴史の「現代」に、中止になった計画もあったことが書かれていました。

なお、太平洋戦争前から霞ヶ浦干拓が進んできたが、最後の干拓地であった高浜入干拓は米の余剰や自然保護、地元漁民などの強い反対運動に遭い、漁業権の補償金が支払われたまま1978年に事実上の中止が決定している。

 

私が高校生の頃の時代の変化です。

祖父母の世代がちょうど干拓が盛んに行われた年代にあたりますが、祖父母の世代もまた驚異的に変化する時代にさまざまな葛藤を抱えていたのですね。

 

霞ヶ浦の水害*

 

上記の野田奈川干拓に「昭和10年に三度の洪水」とあり、霞ヶ浦の水害は記憶にないので不意打ちでした。

 

Wikipediaの「霞ヶ浦」の「歴史」に近代の水害が書かれていました。

明治時代まで、利根川の「主流」は確定していなかった。しかし、足尾鉱毒事件の発生によって霞ヶ浦や銚子方面を利根川主流とする方針が明確になる。この方針は結果として霞ヶ浦の治水対策を強化していく事情につながる。しかし、1938年6月に「昭和13年の洪水」と言われる霞ヶ浦の近代治水史最大の大洪水が発生する。さらに1941年には「昭和16年の洪水」といわれ大規模な洪水が再び発生する。

 

どのような規模の水害だったのでしょう。

干拓の歴史をたどることで、また次々と知りたいことが出てきます。

 

 

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