水のあれこれ 295 瀬戸内海に面した高松城

高松駅周辺を地図で見ると駅から200mほどで海岸になり、高松港があります。半世紀前に宇高連絡船で四国に渡った時には、ここで下船しそのまま父が運転する車で四国をぐるりと旅行したはずですが、ほとんど記憶がありません。

Wikipediaの宇高連絡船を読むと1991年にはJR宇高連絡船は廃止されて四国フェリーになり、2019年にはその四国フェリーも運行を中止して「宇野・高松間の直行航路は109年の歴史に幕を下ろす」と書かれています。今もフェリーで渡れるものだと思い込んでいたので、もう一度乗っておけばよかったと残念です。

 

さらにその港のすぐそばに高松城跡があったことも、全く記憶にありません。

駅の目の前なので、ぜひ訪ねてみようと思いました。

 

*日本三大水城*

 

高松駅前はゆったりと整備されていて大きな池もあります。その池が気になりましたが、11時10分の特急に乗るために30分ぐらいしか時間がないので先を急ぎました。目の前に城跡のある玉藻公園が見えていますが、信号待ちが長く焦ります。

 

ようやく園内に入ると、どこからともなく水の音が聞こえてきて海水を引き入れる水門でした。

美しい石垣と堀です。水門のそばに何か説明がありました。

高松藩松平家の泳法

 藩祖松平頼重公(英公)は、寛永19年(1642年)5月28日、高松城に入城し「讃岐の国は、海辺の国なれば、水練は武道の一班たるべし」と、翌20年夏、藩士の今泉八郎左衛門盛行に命じ、お船蔵西の堀溜にて藩士に水練の指導をさせた。

 頼重公は、入封の年の6月に、城内のお濠で泳がれたと記録にある。

 昭和53年4月、松平家13代頼明氏を会長として、水任流保存会を結成し、毎年6月の第1日曜日には、天守閣東側の内濠にて英公追悼游泳祭を行っている。

 

あちこちの城址を訪ねるようになりましたが、泳ぐことについて書かれていたのは初めてかもしれません。

海や川が目の前にあっても泳ぐことを学ぶ機会がなければ泳ぐのは難しいですね。今でもたまにプールで古式泳法を練習されている方を見かけるのですが、寛永時代からどのように泳ぎ方や教え方が変化したのでしょう。

 

海側の城壁沿いに歩いていると城壁の上に登れる場所がありました。

瀬戸内海に浮かぶ島々が一望できました。今は埋め立てられて道がありますが、昔は城壁の向こうはすぐ海だったようです。

 

パンフレットに、「三大水城」とありました。

検索すると今治城愛媛県)と昨年時間が足りなくて計画から外した中津城(大分県)だそうです。

 

海のそばにある城はどこから水を得ているのか気になるのですが、Wikipediaの高松城の沿革を読むと、こんなことが書かれていました。

1644年(正保元年) 頼重、城内の飲料水確保のため水道を造り、城す下の亀井・大井戸・今井戸より水を引く

どのあたりなのでしょう。たどってみたくなりますね。

 

*海水池*

 

ゆっくり園内を散策している人の姿が多い中、駆け足でまわり駅へと戻りました。

その途中の気になっていた駅前広場の池に寄ってみると、「海水池」とありました。

高松は古来から海上交通が要所にあり、四国の海の玄関口として発展してきました。

生駒親正が1558年(天正16年)に築城した高松城玉藻城)は、「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」とうたわれたように、北側は瀬戸内海に面し、残り三方の濠に海水を引き入れめぐらした日本三大水城の一つで、今でもお堀に海水を引き込んでいます。

海と深くかかわりながら、それをうまく利用してきた先人の知恵に習おうと、海水を引き込み、瀬戸内海の砂浜を再現した海水池を作り、都市のオアシス空間としています。

この海水池には、江戸時代に築かれた護岸や石垣に使われていた石(1999年に現在近くで発掘)も使用しています。

 

池の中をのぞき込むと、遠浅の澄んだ海を眺めているような美しい砂に海藻が漂っていました。

こんな歴史の遺し方もあるのですね。

通り過ぎないでよかったと満足して駅に入りました。

 

 

 

 

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