記憶についてのあれこれ 177 丸亀から児島、倉敷へ追憶の散歩

ため池と整然と広がる美しい街水田の中に見える丸亀城、そして美しい堀とツルボ、ふらりと立ち寄った資料館での古地図 種痘の記録、満ち足りた気分で駅へと向かう途中のビルの前に金属製の表示板がありました。

 

丸亀城址水路跡

 ここにある水路は江戸時代末期のものと推定され、丸亀郵便局下層遺跡の発掘調査により出土されたものです。丸亀城外堀から東側へ約5.5m離れたところから、南北方向に延びており、外堀へ抜ける石組暗渠と交差する所に正方形の石組升を配しています。

 この升の長さは約0.86mあり、四方とともそれぞれ違った組み方をしています。 

 水路の幅は約0.3mあり升から北へ約9m、南へ約4.5m出土しましたが、南北両方向にもっと延びていたようです。

 この石組みの南側取壊しの時に明治の磁器が石の間に混ざっていたことから、明治時期に再築されたものと推定されます。また、今回の発掘調査ではこの他に江戸時代中期から昭和にかけての遺構、建物が数種出土されました。

               丸亀教育委員会 丸亀郵便局

ビルの庭のおしゃれな石かと思ったら、水路とその升が保存されていたのでした。

 

今回、丸亀に一泊した理由はため池と丸亀城以外に、盛岡や佐賀と同じく、40年以上前の同級生の出身地でもありました。長いこと音信も途絶えているので偶然出会えたらとちょっと期待しましたが、それは叶わずに駅へと向かいました。

それでも、彼女をもっと深く知ることができたような満足感ですね。

 

 

*丸亀から児島へ*

 

せっかくなので丸亀でお昼ご飯を食べようと計画していましたが、なんと目指していたお店はお休みでした。

 

一本早い11時26分の特急しおかぜに乗って、児島駅へと向かうことにしました。

ホームで待っていると「宇多津(うたづ)で高松行きと切り離し作業がある」ことと、後ろ側の岡山行きの自由席と指定席の号車案内があったのですが、肝心のアナウンスがちょうど通過した貨物列車でかき消されました。

児島は二駅なので自由席にしたのですが、ホームにも表示らしきものはなくさあどこで待ったら良いのやら。瀬戸大橋線はいろいろな方面へいくので複雑ですね。

 

私の記憶は小学生の頃の宇高連絡船で止まっていて、今年の4月に久しぶりに四国へ向かった時の瀬戸大橋線は初めて乗ったのかそうでないのか記憶が曖昧ですから、浦島太郎の気分のままです。

丸亀の同級生も、休暇で家に帰るときにはまだ宇高連絡船だったはずですからね。

 

宇多津で切り離されて坂出の沿岸部の工業地帯を見下ろすように高架橋へ入るのはなんだか幻のように感じていると、また美しい瀬戸内海が広がりました。

 

あっという間に左手に水島工業地帯が見えてきて、一旦トンネルに入ったあと児島駅に到着しました。

 

 

*児島から水島工業地帯沿いに倉敷へ*

 

児島には親戚がいて、夏休みに何日も泊まりました。海の近くで小さなお店をしていて、歩いて海に泳ぎに行った記憶があります。

そして遊びにいくとイイダコを出してくれて、珍しいタコに驚きながらも美味しかった記憶が残っています。

 

もうその家があるかもわからないのですが、4月に瀬戸大橋線から見た児島はすっかり変わってしまっていて、おそらく南側の旧市街のようなあたりでしょう。

バスの時間まで海側を散策してみましたが、すっかり広い道路とレストランなどになっていて全く記憶がつながりませんでした。

 

駅前に「むかし児島は、島だった」と大きな絵がありました。

古事記」の国生みの神話によれば、「吉備の児島」は、日本で9番目の島として誕生した。

吉備の穴海の時代から、江戸時代ごろに児島が干拓地でつながったことを、ここ数年で知ったのでした。

 

そばにはジーンズの宣伝もありました。児島のジーンズ、子どもの頃には聞いたことがなかったので、これもまた浦島太郎の気分になります。

 

12時40分倉敷行きのバスが到着しました。

今年の1月に倉敷から倉敷川沿いに児島行きのバスに乗ったときに児島から水島工業地帯側を通って倉敷駅へいく別の路線があることを知り、いつか乗ってみようと思っていました。

 

新しいロータリーから天満屋デパート、文化センターなどおしゃれな現代的な場所を回ったあと旧市街地に入るとふと懐かしさを感じました。やはりこのあたりだったのでしょうか。

赤崎の前には古い街並みも見えました。歩いてみたいものです。

 

山沿いにはいくつかため池があり、菰池(こもいけ)のあたりで分水路が見え、切り通しに入り下り坂になりました。いつ頃できた道でしょうか、沿線には新しい住宅が結構あります。

視界が開けて大きな工場が近づいてきました。

古い街並みや神社があり、その向こうに旭化成などの大きな工場地帯がありました。

「塩生」で、「シオノウ」と呼ぶ場合もあるようですがこの辺りは「シオナス」と呼ぶそうです。子どもの頃に親戚から聞いた塩田の話はこのあたりだったのかもしれません。

 

工場がすぐそばで稼働しているのに、1960〜70年代の公害の記憶が信じられない真っ青な夏空が民家の上に広がっていました。

工場の周囲には大きな木々が森のように続いています。ここもまた半世紀前に植樹した木々が工場と周辺の住宅の「鎮守の森」になったのでしょうか。

工場との間にある運河沿いは遊歩道になっています。

 

バスの車窓から見えた水島工業地帯はまるで森の中のようで、公害や景観と生活といった葛藤に長い時間をかけてできた風景がありました。

また浦島太郎の気分になりました。

 

工場地帯が終わり住宅地が広がり始めました。山裾に大きな池があり、「樋の輪(ひのわ)」バス停がありました。

2019年にこの近くにある福田歴史民俗資料館を訪ねたときには、まだ岡山平野の広大な干拓地についてほとんどわからない時期でしたが、今は地図を見るとこの池から西と南に幹線水路らしきものがあったことも読み取れるようになりました。

 

バスの車窓に右手には古田新田の水田地帯が健在です。福田歴史民俗資料館も開館中のようでした。こちらもまたいつまでも健在であってほしいものです。

 

地名を眺めながら車窓の風景を見ていたら、また初心に戻ってこのあたりを歩きたくなってきました。

 

左手に水路が見えます。高梁川からの水がこのあたりの水田を潤しています。

このあとは、その東西用水酒津樋門を再訪する計画です。

 

 

瀬戸内海沿岸の過去から現代へ、記憶を行ったり来たりしているうちに14時ちょうど倉敷駅北口に到着しました。

 

 

 

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