充実した阿波国から讃岐国への散歩も、あとは琴平駅から岡山へ戻って終わりです。
この三日間、子どもの頃に四国を家族で回った時の記憶の片鱗を寄せ集めていましたが、だんだんと現実だったか夢だったかむしろ怪しくなる始末です。
四半世紀前の記憶でさえうやむやになっているのに、半世紀前ですからね。そして記憶にある風景が本当に自分で見たのか、それとも周囲の大人の会話や映像で見た後付けでできたものなのか心許なくなってきました。
さて、岡本駅前の奈良須池を見て、琴平駅へ戻るときには行きとは反対側の風景を眺めました。
起伏のある沿線のどのあたりからか一面の麦の穂が広がりました。そして讃岐富士がどこからも見えるようになって、琴平駅に到着しました。
「あ、やはりこの讃岐富士が私の記憶にある香川県だ」と思い出しましたが、記憶ではもっと平地の中のぽっかりと見える山だったような感じです。
冬休みのあの家族旅行は宇高連絡船で高松に着いたあと、国道32号線で琴平へ向かい、そのあと大歩危小歩危を通って高知へと向かったのでしょうか。となると、鳴門の渦潮を見に行ったのは別の機会だったのか、それとも「見たような気がした」記憶違いなのか、考えれば考えるほどあやしくなってきました。
琴平にも立ち寄った記憶があります。金比羅宮の境内まで登り、讃岐平野を眺めた記憶が。
残念ながら今回は時間も体力も残っていなかったので、参道の入り口のあたりを見るだけの計画でした。
平日ですが、国内外の参詣や観光の人がけっこう歩いています。
記憶の中の金比羅宮も賑やかでした。お土産屋さんが立ち並ぶ道を歩きましたが、思い出す手掛かりになるものは見つかりませんでした。
本当にあの大変な坂道を登って金比羅宮にお参りしたのか。
子どもの頃から時系列の日記をつけていたらと、ほんとこの年になると無念さでいっぱいです。
記憶を取り戻す手がかりも見つからないまま、高松街道と書かれた小さな路地を抜けてJR琴平駅へと戻りました。
1970年代は、この路地沿いも人がたくさん歩いていたことでしょう。人口は今より少ないのに賑やかな場所がたくさんあった時代を思い出しました。まだまだ歩くことが手段だったからかもしれませんね。
13時45分特急南風14号が到着しました。黄色い車体にアンパンマンが描かれていました。
善通寺のあたりからは麦秋が近い風景になりました。緩やかな段々畑や水田が広がっています。このあたりは満濃池からの水路のようです。
そういえば、琴平駅に国営讃岐まんのう公園行きの無料シャトルバスのバス停がありました。
いつか満濃池、そして香川用水の歴史をたどりたいものです。また新たな計画ができてしまいました。困りましたね。
あっという間に多度津の造船所が見えて、瀬戸大橋を渡り、左側の車窓の向こうに水島工業地帯が見えました。
早島の干拓地を抜け、14時41分に岡山駅に到着して今回の散歩が終わりました。
こんなに半世紀の記憶が混乱する散歩は初めてでした。
たった半世紀ほど前なのですが、やはり驚異的に変化する時代だったことを痛感しました。
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