水のあれこれ 246  厚狭の寝太郎堰

厚狭(あさ)に宿泊しようと計画したのは、河口の開作を見てそのまま海岸沿いを下関まで長距離の路線バスがあるからでした。

 

せっかく初めて訪ねる場所ですから、時間があれば水路を歩いてみたい。そう思って地図を拡大したり航空写真に切り替えて眺めているうちに、JR美祢(みね)線に沿って山あいから流れ出てきた厚狭川が南西へと流れを変える場所に堰があるのを見つけました。その数百メートルほど西の山の端に熊谷居城跡があり、その前を水路が山に沿って流れながら厚狭の盆地全体へと水を流し、最後は駅の南で合流して山の間を通り瀬戸内海へと流れているようです。

 

北側から流れてきた厚狭川が山にぶつかるところで取水堰を作り、盆地に水を行き届かせ、そして三方から流れてくる小さな川の水が盆地に溜まってしまわないように排水させる。

その合流部が少し太い水色の線になっているのは、排水機場だろうと見当がつきました。

用水と排水の両方が大事ですからね。

 

検索しているうちに、寝太郎堰だと知りました。

時間と体力があったらこの寝太郎堰とその用水路が水田を潤す地域と排水機場のあたりを訪ねようと計画しましたが、タクシーでぐるりと少しだけ回ったのでした。

 

*寝太郎堰と寝太郎用水路*

 

山陽小野田市郷土資料館の資料に「寝太郎」という章があります。

 湿地帯だった厚狭の「千町ケ原」を瑞々しい水田に変え、村おこしを成し遂げたと伝えられる「寝太郎」。日本各地に伝わるこのお話は、そのほとんどが民話として語り継がれているだけですが、厚狭の町では、実在の人物であったかのように「寝太郎」が生活の中に息づいています。

 いつ誰の手によって厚狭川が堰き止められ、厚狭盆地に縦横に水路を構築する事業が行われたか公的な記録は残っていません。しかし、膨大な資金と労力を要したことは疑いようがなく、この偉業に対する人々の感謝の気持ちが、寝太郎物語として語られるようになったのでしょう。

 

歴史を正確に記録するのは大変ですね。

 

大井手(寝太郎堰)

 約300年前に築造されたといわれる大井手は、石張溢流堰(いしばりいつりゅうせき)で、当時の土木工法の英知を結集したものでしたが、大洪水で流失したため、昭和38(1963年)、コンクリート造の固定堰が造られました。

寝太郎用水路

 大井手(寝太郎堰)から引き入れられた水は厚狭盆地をくまなく流れています。

 従来は鴨庄や広瀬地区を流れているだけでしたが、昭和43(1968年)に分水場が造られ、山川地区にも流れるようになりました。

千町ケ原(せんちょうがはら)

 大井手(寝太郎堰)の築造及び導水により拓かれた美田は「千町ケ原」と呼ばれています(受益面積383ha)。

 今ではかなりの部分を住宅地や産業地が占めるようになってしまいましたが、北部を中心に美田が広がっています。

 

ホテルの窓から朝霞が見えて、その中から現れた水田地帯は本当に美しいものでした。

 

旱魃(かんばつ)記念碑*

 

その資料に、旱魃記念碑の説明もありました。

 寝太郎荒神社の敷地内には「旱魃記念 自昭和14年6月22日至同9月11日迄晴天 大井手のみ満作」と刻まれた石碑があります。

 昭和14年(1939年)は大干ばつで、厚狭川の東側などは収穫が皆無の状態でしたが、大井手(寝太郎堰)から水を引いた地区は逆に豊作だったとのこと。

 その驚きと感謝が一本の石柱に刻まれています。

 

2か月半も雨が降らない年があったのでしょうか。

 

知多半島愛知用水建設のきっかけになったのが1947年(昭和22)の大旱魃だと知って、私が生まれる十数年前までは「大旱魃」という言葉があったと驚いたくらい、干ばつの被害が激減した時代になりました。

 

 

 

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