水のあれこれ 300 「四国三郎」の「阿呆水」

吉野川の堤防の上にあった第十堰の案内板に、「現在の河道と村々沼川堰留之図との比較」がありました。

 

この「村々沼川堰留之図(むらむらぬまかわせきとめのず)1800年代早期 (「国立国文学研究資料館史料館蔵)」は、国土交通省のホームページの「吉野川」でも見ることができますが、第十堰あたりの入り組んで蛇行した複雑だった河道が描かれています。

 

最初に吉野川河口付近を歩きたいと地図を眺めはじめたもののあまりの複雑さにどこをどう歩けばよいか皆目見当がつかずに、利根川の歴史でよく出てくる「河道が定まらない」という言葉を思い出したのでした。

 

国土交通省のホームページに「現在の吉野川の姿へ」が書かれています。

新川掘り抜き工事 (別宮川改修)

 

吉野川の河口から約14km上流に第十堰があります。吉野川は、そこから河口に向かって川幅を広げながら悠々と流れ、雄大な景観が広がり、河口干潟には自然環境が創出されています。しかし、その姿は元々の吉野川の姿ではなく、明治の終わりから昭和の初めにかけて、人工的に整備された放水路なのです。藩政時代は、別宮川と呼ばれており、南北に蛇行しながら河口に注いでいました。

別宮川には、洪水を防ぐような大きな堤防はなく、毎年のように発生する洪水は、当時の吉野川(現在の旧吉野川)では処理しきれず、別宮川へ溢れ川沿いの土地や集落に深刻な浸水被害を及ぼしていました。そのため、別宮川を吉野川の放水路として洪水を安全に流すため、別宮川沿いに第堤防を築くとともに、川の土砂を掘削、浚渫し、現在の姿のように本流化したものです。

(強調は引用者による)

 

1980年代から90年代、環境破壊か経済成長か、自然か人工かという葛藤の時代でしたが、その頃「自然な」と思っていた川もまた江戸時代頃からの河道の付け替えや、明治以降の放水路によって水害を減らすとともに美しい干潟ができた事実もあることを当時知っていれば、とつくづく思います。

 

 

*「四国三郎」の「過去の洪水の傷跡」*

 

ここ数年、あちこちの川を訪ね歩くと必ずと言ってよいほど「暴れ川だった」という言葉につきあたります。

 

国土交通省の「吉野川」では、「日本三大暴れ川」と書かれていました。

日本三大暴れ川「四国三郎

 

吉野川は、古くから「四国三郎」と呼ばれ、「坂東太郎」の利根川、「筑紫二郎」の筑後川とともに、日本の三大暴れ川に数えられ、阿波は全国でも有数の洪水国でした。吉野川の両岸に大きな堤防が築かれたのは昭和初期の頃であり、それ以前は経済的にも技術的にも洪水を防ぐような大堤防は築くことができなかったと言われています。このため、毎年のように氾濫する吉野川が肥沃な土壌を運び、形成していたため、吉野川下流域では藍の栽培が盛んに行われていました。

いつ頃、どんな基準で「三大暴れ川」の名称ができたのでしょう。

 

 

過去の洪水の傷跡

 

吉野川は、流域の人々に恩恵を与えてきた反面、ひとたび大雨が降れば暴れ川となり、毎年のように洪水被害を発生させて、川沿いの住民生活を苦しめてきました。藩政期の著名な水害としては、享保7年(1722年)の大洪水、嘉永2年(1849年)の死者が250名に及んだと伝えられる「酉の水(または「阿呆水」)」と呼ばれる大洪水、慶応2年(1866年)の「寅の水」と呼ばれる大洪水があります。

特に、「寅の水」においては、死者約2千人から3万人余りといった未曾有の大水害となり、今も蔵珠院のお寺には、洪水によるシミが茶屋などに残されています。

また、明治に入っても水害は頻発し、明治21年1888年)、明治30年(1897年)、明治32年(1899年)においては、堤防が決壊する被害となった。

 

「阿呆水」については「水土の礎」の吉野川「第3章 阿呆水と銅山川分水」に書かれていました。

吉野川は長い。

水源地は高知の山の中。この地の雨量は際立って多い。

下流徳島平野は晴れていても、他国に降った大雨が突然、怒涛[とどう]のように襲ってくる。

誰のせいでもない。しかし、遣[や]り切れぬ思いが歴史の底に澱[よど]む。

人は「土佐水」、または「阿呆水」などと読んで天を呪うしか無かった。

 

 

徳島平野では日中晴れていても、突然として夕刻(酉の刻)や明け方(寅の刻)に大洪水が襲ってくる。

千曲川から信濃川への時間差の洪水を思い出しました。

 

正確に状況を把握できない時代だったにしても、「死者2千人から3万人余り」は壮絶な災害ですね。

人命を失い、田畑や財産を失い、自力でそれをまた取り戻すしかない。

災害を制していかなければその地域の生活の安定はないのですが、水害の記憶が少ない時代に生まれ育ったということは、大昔からの願いが叶ったとも言える時代なのだと改めて「四国三郎」を読みました。

 

 

 

 

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