米のあれこれ 62 布勢水海の干拓地

朝日丘の交差点を渡ると、右手は丘陵のすぐそばまで水田があり集落が山裾に見え、左手は少し低い場所に水田が広がっていました。

県道76号線を道なりに歩いていくと、左手の水田地帯の200メートルぐらいのところに水路らしいものが見え、どうやらそばに歩道もあるようです。

 

左へと曲がるとその先は池のような水面が見え、でしょうか、背の硬い草が真ん中に生い茂っていました。草に遮られて見えませんが、その向こうも地図では水田地帯のようです。

途中から十二町潟水郷公園の敷地になり、遊歩道に沿って歩くと広い公園の中心部に出ました。

左手はずっと広い湿地が広がり、西の方にはずっと水田が見えました。

誰も歩く人がなく、広大な潟の公園を独り占めです。

 

ふと振り返ると、あの屏風のように立つ雪を抱いた立山連峰が見えました。

Wikipediaの「氷見」の由来を読むと、「海をへだてて、立山連峰の万年雪が見えるから」という説もあるそうですが、富山湾をへだてても、そして少し内陸部に入ってもずっと立山連峰が見えるのですから本当に富山県の景色はダイナミックですね。

 

氷見というと能登半島の付け根の「山と漁港」というイメージでしたが、地図で見つけた内陸部の潟に水田が広がっている風景に感無量でした。

 

 

*布勢水海の干拓

 

いつ頃からの水田なのか、Wikipediaの「十二町潟オニバス発生地」に布勢水海(ふせみずうみ)の説明がありました。

 

十二町潟は氷見市を流れる仏生寺川、および万尾(もお)川の下流域にある潟湖で、同市市街地の南西方向に位置している。この付近にはかつて布勢水海(ふせみずうみ)と呼ばれた大きな湖(潟湖)があり、奈良時代には越中国の国守となった大伴家持が湖上に船を浮かべて、都から来た客人をもてなす宴が開かれたという言い伝えが残されており、万葉集にはその時に詠まれた歌が複数収められている。

 

昭和に入ってからの食糧増産のための干拓地だろうかと思っていたのですが、歴史は古いようです。

江戸時代に入ると布勢水海では新田開発による埋め立てによる水田化が進められ徐々に水域が狭まり、湖水流出口近くに位置する水域の一部が最終的に残り、これが今日の十二町潟の原型となった。

文政年間(1812-1830年)に書かれた記録によれば、当時の十二町潟は今日の単位に換算して長さ2.7キロメートル、幅約1.3キロメートルにおよび、沿岸一帯にはハスが生い茂り、開花時は非常に美しいものであったという。

 

明治に入った1870年(明治3年)には、十二町潟から流出する湊川とは別に、洪水対策のための排水路として八幡疎水が掘削され、江戸期以降の埋め立てによって生まれた十二町潟周辺の湿田水田は乾田化が図られた。その後1950年代(昭和20年代後半)には十二町潟へ流出する最大河川である仏生寺川の流路も付け替えられ、さらに十二町潟とに直接流れ込んでいた万尾川も1968年(昭和43年)の河川改修により潟湖の南側を堤防で隔てた形に流路変更されるなど、十二町潟の環境は大きく変化していった。

 

朝日丘の八幡神社の御由緒の「海抜ゼロメートルの湖西潮の逆流に田の損なひの甚だしいのを、付近一帯の岩盤浅瀬を利用して治水に労せられた祖先の姿」「後これを承けて八幡の疎水(新川)が掘られ」というのは、湿田から乾田への大きな変化の時代の記録だったようです。

 

潟を利用した湿田の時代とは、おそらく腰切り田とか乳切り田の過酷な農作業だったことでしょう。

 

誰もいない園内のベンチにしばらく座り、風と草のかすれる音と鳥の鳴き声だけの静寂で広大な潟を眺めました。

 

 

 

「米のあれこれ」まとめはこちら