米のあれこれ 66 利根大堰から23~24キロ地点の田んぼ

元荒川を超える見沼代用水の水門には「柴山調節堰」と標識がありました。1982年(昭和57)に造られたようです。

 

利根川から流れてきた水がその水門で地下へと見えなくなる様子をしばらく眺め見沼代用水沿いに歩き始めると、大きな案内板とおしゃれな和風の外観の公衆トイレがありました。

おそらく用水が厳しく管理されていた時代だったらそばにトイレを作るなんて衛生上もってのほかだったことと思いますが、これもまた下水道の整備など驚異的な時代の変化のおかげですね。

 

見沼代用水のそばにはサイクリングロードが整備されていて、ほとんど人が歩いていない道でしたが時々自転車に出会いました。

 

白岡市柴山伏越周辺案内図」とあり、いつの間にか蓮田市から白岡市に入ったようです。

見沼代用水の東側に細長い柴山沼があります。実際に歩いてみると水田地帯の向こうに沼があることは感じられません。

 

その案内図を帰宅してからよくよく見ると、見沼代用水の西側の野通川と元荒川と見沼代用水に囲まれた場所の一部が「久喜市飛地」になっていました。

どんな歴史があるのでしょう。

 

*河川の立体交差*

 

 

柴山伏越から600mほどのところで北西から流れていきた野通川と見沼代用水がしばらく並行して流れ、その先で「6叉路」のように水色の線が交ざりあった場所があります。そこをみてみたいと思っていました。

 

実際に歩いても人の目線の高さでは川の交差も見えないので何がどうなっているのかわからなかったのですが、また白岡市の説明板がありました。

 

九か所の河川立体交差 緑の水の里・白岡

  野通川(上)と隼人堀川(下)の立体交差

  見沼代用水(上)と隼人堀川(下)の立体交差

 

 野通川(やどおりがわ)は行田市小針を管理起点とし、鴻巣市久喜市白岡市を流れ、蓮田市で元荒川に合流する一級河川である。この川は見沼代用水が享保一三年(一七二八年)二月に完成した後に幕府勘定吟味役の伊澤弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)によって行われた周辺沼地干拓の排水路(落し堀)として、開発されたものである。

 見沼代用水は八代将軍徳川吉宗の命により、伊澤弥惣兵衛為永によって開削された見沼に代わる灌漑用水である。この用水は現在の利根大堰で取水され、総延長は約八四kmで、その下流端は東京都足立区に及んでいる。

 隼人堀川は白岡市柴山を管理起点とし、宮代町を流れ、春日部で古利根川に合流する一級河川である。隼人堀川は、見沼代用水の完成とともに地域の灌漑用水が確保され栢間(かやま)沼(久喜市)を干拓するにあたり溜水を排水するために掘られたものである。この川の呼び方は、以前は庄兵衛堀川合流地点(白岡市寺塚)から下流を隼人堀川と呼び、上流部分は栢間堀と呼んでいた。今では河川行政上は全川を通して隼人堀と表示されている。

 これらの用排水路がこの付近で交差し、隼人堀川が野通川と見沼代用水の川底をくぐって川の立体交差を形成している。

平成二十八年二月   白岡市観光協会

白岡市には、この他に川の立体交差が七箇所あります)

 

(強調は引用者による)

 

柴山地区あたりの水田地帯を見沼代用水で潤し、そして隼人堀川で排水する。

この説明板のおかげで、田んぼが立体的に見えてきたのでした。

 

利根大堰からはるばる流れてきた見沼代用水が、こうした川と川の交差でまたその地域の田んぼを造ってきたことに少し気が遠くなりました。

 

ところでだいぶ見沼代用水についてわかったと思っていたのですが、この説明の「見沼に代わる灌漑用水」と常福寺の伊沢弥惣兵衛の墓の説明板を読み直してはっとしました。

 

なぜ「用水」ではなく「代用水」という名前なのだろうと不思議に思っていました。

あらためてWikipediaの「見沼代用水」を読み直してみると、最初に書かれているではありませんか。

その名の通り、灌漑用溜池であった見沼溜井の代替用水路であった。

 

いやはや、知識が身になるにはほんと時間もかかるし、たくさん読み飛ばしていますね。

 

 

白岡市のあと七箇所の川の立体交差も気になりますね。いつかそのそばの田んぼを歩いてみたいものです。

 

 

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