見沼代用水の歴史についての総論を読んでもなかなか頭に入らないのですが、地図で見つけた場所を実際に歩いてようやく少し理解できるという感じです。
とりわけ、水路が交差している場所は全体像を知る鍵があるような気がしています。
今回の散歩も、見沼代用水と元荒川が交差する場所を見てみたいと思い、蓮田駅から最寄りのバス停で下車して歩き始めました。
*綾瀬川沿いから元荒川沿いへ*
蓮田駅を11時57分に出るバスに乗りました。市街地を抜けると、左手が低く水田地帯が広がっているのが時々見えるようになりました。
見沼代用水と綾瀬川が近づいたり離れたりする場所で、その先に綾瀬川の水源だと思って歩いた地域があります。このあたりの田んぼの歴史もたどってみたいものです。
バスは両側が畑地の尾根のような場所を北へと走りますが、地図では東側は300mほどのところに元荒川が流れているのですが川の気配はないまま東北新幹線の高架橋を越え、国道122号線から分かれて県道77号線へ入ると井沼という地域になりました。
「沼」という地名でもやはり尾根のように感じる場所で、沿線は果樹園が多い場所でした。
しばらくすると見沼代用水を越え、八幡神宮前で下車し北東を流れる見沼代用水を目指して歩き始めました。
周囲は畑と果樹園で水田は見当たりません。
少し上り坂のような場所があってそこに見沼代用水が流れ、その北側に広々と水田地帯が広がっていました。元荒川にはさまれた場所です。
6月中旬、田んぼの水面がわずかに見えるくらいで十数センチ以上に成長した稲が風になびき、稲の香りが満ちています。
ここからは田んぼを見ながらの幸せな散歩です。
500メートルほど歩くと元荒川の土手が近づき、見沼代用水は水門のような施設の中へと消えていきました。
*柴山伏越*
元荒川にかかる橋を渡ると、反対側の水門があり見沼代用水がその先に続いています。
川と川を交差させるマジックのような技術はてっきり近代に入ってからだろうと思っていたのに、江戸時代にはすでに掛樋から伏せ越という技術があったことにも驚かされますね。
水門のそばにある案内板で、ここが柴山伏越と呼ばれる場所であることを知りました。
柴山伏越(しばやまふせこし)
元荒川と見沼代代用水の交差地点で、元荒川の河底を見沼代用水が抜け出る構造になっています。これは、液体を低いところに落とし、元の高さまで押し上げる連通管の理論を応用したものです。この伏越は、享保12年(1727)に井沢弥惣兵衛為永によって「紀州流」という土木技術で行われました。当初、伏越地点では伏越と掛渡井(元荒川の上を樋によって通水する)が行われ、舟運にも利用されていました。
用水路が川を越えることによって、その川の片側だけでなく幾つもの川の両岸の水田地帯をうるおすことができる。
地図で見つけた水色の線が交差した場所が気になって訪ねたことで、また見沼代用水の歴史に圧倒されることになったのでした。
この場所から上流12~13kmぐらいのところでしょうか、1968年(昭和43)に完成した武蔵水路が元荒川をくぐっていて、江戸時代の技術が現代へと生かされていることがつながりました。
*おまけ*
ちなみにMacの地図には、見沼代用水のこうした大事な場所は描かれていません。
地図を眺めているだけであるいはちょっと検索するだけで世界中のいろいろな場所のことを知ることが可能になったここ四半世紀ですが、やはり実際に歩いて知ることがまだまだたくさんあるので散歩はやめられないですね。
「水のあれこれ」まとめはこちら。
利根大堰と見沼代用水・武蔵水路・葛西用水路の記事のまとめはこちら。