水の神様を訪ねる 88 武蔵水路が流れを変える場所にある氷川神社

今回の散歩では原馬室から滝馬室までの荒川沿いの二つの氷川神社と、そこから数キロ先の武蔵水路が荒川に合流する場所にある氷川神社を訪ねる計画でした。

 

無事に目的を達成し、あとはまっすぐまっすぐ武蔵水路沿いに美しい水田地帯を歩いて、JR北鴻巣駅がゴールです。

なんとか歩ききれそうですが、時々日傘が飛ばされそうな川風です。

 

歩ききれそうだとわかると、少し欲が出てきました。

あと二つ氷川神社を訪ねてみようと、計画を変更しました。

 

地図では北鴻巣駅の東側から武蔵水路が南西へ、そして南東へと大きく流れを変える場所があり、その左岸側にある「宮前地区」に二つ氷川神社があるので、立ち寄ることにしました。

 

 

*二つの箕田氷川神社

 

武蔵水路の糠田樋管という大きな水門からまっすぐ水路沿いに北へ歩くと、1.2kmぐらいのところでしょうか、南西から流れてくる川と並行している場所があります。

現地でもその川の名前がわからなかったのですが、あの「洪水から地域を守る! 県営湛水防除事業」の水門までまっすぐ糠田地区の水田地帯を流れています。

 

そのあたりまで来て、なぜ武蔵水路が曲がっているのかわかりました。

左岸側が大宮台地の縁で、なだらかに北へと向かって高くなっています。

 

ゆるやかな上り坂に住宅地が広がっていて、上り切ったところに氷川神社がありました。

想像していた鎮守の森に囲まれた神社ではなく、大きな木が全くない境内でしたが、周囲に水田がありました。

箕田氷川神社御由緒

 

 氷川八幡神社は、明治六年、当時箕田郷内に祀られていた氷川社、八幡社など二十余社のお社を併合して、箕田地区の郷社として八幡社のあった現地に祀られたものである。

 氷川社は、承平八年(西暦九三八年)清和天皇の孫である源経基武蔵国の国介(くにのすけ)となってこの地に赴任して統治した際、大宮の氷川神社から勧請(かんじょう、分けて祀ること)したと伝えられており、中宿地内に祀られていた。

 八幡社は、源経基の臣下であった源 仕(つかう)が経基と相談して、天慶四年(西暦九四一年)現在地に京都の石清水八幡宮から勧請したもので、仕の孫の渡辺 綱(つな)によって神田(しんでん、八幡田の地名あり)が寄進され再興されたものである。

 仕は、嵯峨天皇のひ孫にあたり、平将門の乱藤原純友の乱の平定に武功をあげ、武蔵国の国守に任ぜられてこの地に住んだものであり、綱は、丹後の大江山に住む鬼を退治した逸話で有名な武将である。

 ともに武勇に優れ、戦いの折はこの八幡社に祈願して武勲をたてたので、八幡社は後世、戦いの神様として近隣の崇敬を集めた。

 

なんと、戦いの神様だったとのことです。

ちなみに「箕田(みだ)」と読むようです。

 

ここから北西に数百メートルほどのところに、Macの地図では「箕田氷川神社」があります。

すぐ裏手にJRの線路があり、貨物列車が通過していきました。

住宅地の中にポツンと小高い場所があって、小さなお社が木々に囲まれてありました。御由緒もありませんでしたが、古墳であったことが書かれています。

Wikipediaの大宮台地によると、この辺りには古墳群があるようです。

 

100メートルほど西に向かうと、再び二列の武蔵水路にぶつかりました。

北側から少し切り通しのようになっていて、低い位置に掘り下げられて流れているように見えます。

高台からゆるやかに水を流すためでしょうか。

ちょうど私が生まれた頃に、この地域は武蔵水路とともに大きく風景も生活も変化していたようです。

 

 

古墳が造られた時代、そして氷川神社が建立された十世紀から現代まで、どのような歴史があったのでしょう。

 

静かな住宅地が広がる中、北鴻巣駅まで歩き、また新宿湘南ラインに乗って帰宅しました。

稲穂が美しく、数カ所の神社を訪ねて満ち足りた散歩になりました。

 

 

 

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