東武東上線のみずほ台駅と鶴瀬駅間には、氷川神社がいくつかあります。
氷川神社が気になり始めた頃は、この辺りは「荒川右岸」という大きなくくりでしか見ていませんでした。
2年ほど前に見沼代用水と武蔵水路を見に行った頃に、地図で埼玉県内の河川を眺めていたら「古利根川」や「元荒川」を見つけました。
そういえば以前、利根川と荒川は河道が安定せずとブログの中で引用していたではないか、と次第に関東平野の川の歴史が繋がってきたのでした。
川越から朝霞水門まで、この荒川右岸にはまるで毛細血管のように水色の中小河川があり、沼や池のような場所がたくさんあります。新河岸川の歴史と重なることが少し見えてきました。
氷川神社が多いのもそのためかもしれません。
*新河岸川と氷川神社*
水子貝塚公園を出ると水宮神社があります。ここも水の神様だと推測していたのですが、由来がわかりませんでした。この神社の横から下り坂になり、新河岸川の堤防に出ます。
ほとんど歩道がない道を車が勢いよくひっきりなしに通るので、わずか200mほどでしたが堤防にたどり着いた時にはどっと疲れました。
でも目の前に広がる新河岸川と緑の堤防は、想像以上に美しいものでした。カワウやさぎやかもがのんびりと泳いでいます。
日本の川はいつ頃からこんなに美しい姿を取り戻したのでしょうか。
新河岸川河川水防センターの横から堤防沿いに、柳瀬川との合流地点まで歩きます。
少し風が強くなってきましたが、堤防のあちこちで草刈りや堤防の補強工事が行われています。
浦和所沢バイパスの下をくぐり袋橋通りで対岸に渡ると、少しだけ小高くなっていて、そこに3つめの氷川神社(志木市上宗岡)がありました。宿氷川神社あるいは上ノ氷川神社と呼ばれていて、創建は1078年ごろらしいことが記されていました。
そこから新河岸川左岸の遊歩道を歩くと、宗岡第4小学校前の堤防には両側にコスモスが植えられていて満開でした。一年生の背丈ぐらいあるのですが、ちょうどその中を下校する子供達が歩いています。
美しい風景です。
*野火止用水を見つけた*
新河岸川と柳瀬川の合流部を目指したのは、川が合流する場所を見てみたかっただけでなく、そこに志木市市役所があったことでした。なぜあえて浸水しやすそうな場所にと気になったのですが、ちょうど建て替え中でした。
柳瀬川を渡り、4つめの氷川神社に向かって右折したところ、そこに木製の樋が展示されていました。地図には載っていないもので、近づくといろは樋でした。
いろは樋(いろはどい)とは、寛文2年(1662年)埼玉県志木市の新河岸川に架けられた野火止用水の水路橋である。野火止用水の水を新河岸川を跨ぎ越して、宗岡地区に導いた。
新河岸川の左岸と荒川の右岸に挟まれた宗岡地区は、度重なる水害と恒常的な農業用水不足に悩まされた。この地域を知行していた旗本、岡部直忠は、現志木市本町(旧引又)から新河岸川に無効用水(末流)が流れていたのを見て、家臣の白井武左衛門に命じ、新河岸川に総延長126間(260m)の水路橋を架設した。樋は船の通行を妨げないようにするため、水面から4-5メートルの上方に架けられた。
たしかに「宗岡」とあるように少し小高い場所なのですが、現代では水不足を心配するような高低差には見えない場所です。ところが、目の前に水があっても水を得られないばかりか水害には会うのですから、水を制することは本当に気が遠くなる歴史です。
そしてその貴重な水も、感染症によって終焉を迎えたようです。
1949年(昭和24年)衛生状態を確認するため埼玉県内を巡回していた占領軍埼玉県軍政部衛生課長グラディス・W・ローラが野火止用水の細菌検査を実施した際、飲料不可の結果が出された(ローラの「不潔宣言」)。また1951年(昭和26年)に当用水路を飲料水にしていた新座市野火止の住民50人が赤痢になった。これらによって上水道の普及が進み、野火止用水は1965年(昭和40年)に下水道菅隣、宗岡潜管との接続を遮断した。
腸チフス・パラチフスの予防接種が行われていた時代でした。
本当に、多摩川の水がはるばる野火止用水によって新河岸川まで送られていたことを確認することができました。
少し疲れたので、もうひとつ舘氷川神社(志木市柏町)を訪ねたら帰ろうかと思っていたのですが、このいろは樋を見たら、なんだかもっと歩いてみたくなりました。
水田が広がる柳瀬川を渡り、みずほ台駅方面に歩くと高台に5つ目の氷川神社があります。由来は書かれていないのですが、広々とした境内です。
2万歩ぐらいの散歩でしたが、水路や川を多数越えて、高低差のたくさんある道でした。
「水の神様を訪ねる」まとめはこちら。