狩川駅から北楯神社を目指して歩き始めましたが、神社のある場所は想像以上に小高い山で鬱蒼とした森でした。
山すそに沿って用水路が大きく曲がりながら流れる場所なので、当然の地形といえばそうでした。
北楯神社のホームページの写真を見るとお社まで簡単に歩けそうにイメージしたのですが、目の前の山に、これは歩いては無理そうと理解しました。
この季節、地元の方でないとわからない熊とか猪そしてスズメバチに遭遇しても怖いですからね。
*最初は水神社だった*
美しい水路や街を思い出しながら、やはり神社も訪ねてみたかったなあとホームページを読み返すと、前身が水神社だったことが書かれていました。
利長公が没した寛永二年(1625)から百五十三年後の安永七年(1778)、この水路の恩恵を受けた人々達が、利長公の功績を称えて狩川八幡宮の境内に利長公を祀る祠を設け、「北楯水神社」と称しました。
(北楯神社、「御由緒」より)
水路から受けた恩恵が「水神社」となるまでの150年、この地域にはどんな生活の変化があったのでしょう。
*17世紀初頭の犠牲者の記録*
そしてさらに「北館大堰の概要」の一文に目が止まりました。
行く前にも読んだはずなのですが、目に入っていませんでした。
山裾での掘削では地すべりにより16人の人夫が犠牲となる事故が発生したり、崖に隣接する最上川の埋め立てでは、激流のため土石が流され、何度も埋め立て作業を繰り返すなど困難を極めました(事故が発生した場所には「殉難十六夫慰霊塔」、激流で何度も埋め立てた場所には「青鞍の碑」が設置されています)。
17世紀初頭の城主が、殉職した人夫の人数とその場所を記録していたことに驚きました。
現代でこそ殉職慰霊碑の記録はありますが、17世紀はもっと人の命が軽んじられていたというイメージでした。
「領民が豊かな生活を出来ることが領主の勤めとし、水不足の問題に取り組む事」(「北館大堰の概要」)という北館大学利長公が、犠牲になった人たちに心を痛めたからこその記録でしょうか。
あの自ら提唱した愛知用水建設工事で56名の犠牲を出したことに大変苦悩し、償いとして献体活動を始めた久野庄太郎氏のことを思い出しました。
人の命や生活に大きな影響を与えることを推し進めていかなければいけない時に、その失敗と責任の大きさにもがき苦しんで痛みを感じるからこそ、長い年月を経てようやく現代のリスクマネージメントへとつながってきたのかもしれませんね。
「殉難十六夫慰霊塔」が残されているということから、北館大学利長公が祭神とされた理由が分かったような気がしました。
「記録のあれこれ」まとめはこちら。
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