元新聞記者さんという人が電気を使わない生活を売りにした記事を書いたり、てくてく歩いて現金で買い物をする方が高齢者には良いといった記事を書いて、それがある一定数の賛同者を生み出していく現象も理解できるような気がします。
ええ、私にも1980年代ごろはどんどんと物が増え便利になっていく生活の反面、世界中、貧富の差がますます大きくなっていることに罪悪感を感じて冷蔵庫や洗濯機を使わないようにしたり、にわかヴェジタリアン になってみたり、いろいろとありました。
当時はおそらく、豊かになっていくことへの不安を、結構多くの人が持っていたのではないかと思います。
「これでいいのか」「便利さだけを求め続けていいのか」「『自然』を大事にしなければいけないのではないか」、と。
「清貧」とか「豊かさとは何か」といったテーマの出版物も多く見かけた時代でした。
経済にうとい私なので、「経済成長」という言葉には警戒心がありました。
経済のパイが大きくなれば、貧しい人たちの取り分も増える と言われても、搾り取られる方が大きいようなイメージはなかなか払拭できるものではありません。
ただ、最近あちこちを歩き回るようになって、やはり人が住む街並みだけでなく自然を守るためにも、お金は大事だと感じることが増えました。
そして先日倉敷の街を歩いてみて、現代だけでなく昔もやはり経済が強いことが長い目で見て安定した生活の場を作り、そしてそれを一世紀、二世紀という後の社会へと遺していけることになるのではないかという印象が強くなりました。
<「事業で得た富を社会へ還元することの重要性」>
大原美術館について、子どもの頃に倉紡(クラボウ)の大原一族が私財を投げ打って世界的な美術館を建てたという話を何度か聞いたことがあります。
一地方都市に、ピカソとかの絵画を展示している美術館があるのは唐突な感じがあったのですが、Wikipediaの大原美術館の沿革を読むと、ニューヨーク近代美術館が建てられたのが1929年でその翌年に大原美術館が建てられたようで、世界の中でもかなり珍しい存在だったのかもしれません。
創設者の大原孫三郎氏についての説明がありました。
大原孫三郎は1880年、親の代から紡績業を営む倉敷の名家に生まれた。日本の児童福祉の先駆者であり、岡山孤児院の創設者である石井十次との出会いが大原の人生を変えたという。プロテスタント信者であった石井の影響で、自らもプロテスタントに改宗した大原は、事業で得た富を社会へ還元することの重要性に目覚め、大原社会問題研究所、労働科学研究所、倉敷中央病院などを次々と設立した。大原にとっては美術館の創設も社会貢献の一環という認識だったようだ。
これがノブレス・オブリージュで、私も散歩をしているとあちらこちらの庭園や公園などで恩恵を受けています。
そしてうまく表現しにくいのですが、散歩をしていると、ある時代の豊かな財源を元にお金をかけて作られた街並みというのは、どことなく落ち着いている印象です。
倉敷周辺は、江戸時代に遡れば天領として経済的に豊かな地域であったようです。もちろん貧富の差は現代の比にはならなかったことでしょうが、経済が回ることで生活の場としての街並みが整備されていったのではないかと想像しています。
それは日本に限らず、一時期暮らしていた東南アジアの街並みでも感じたことがありました。
今回、倉敷の街を歩きながら、私が持っていた「経済成長」という言葉に対するイメージに別の見方が加わわりました。
「豊かさか貧しさか」のどちらか一択ではなく、何世紀にも後の社会にも住みやすい街を残していけるような経済成長が必要なのだと思えてきました。
遠回りした感じですが、この豊かさへの罪悪感のようなものは厄介かもしれませんね。
まあ、経済という言葉が広がったのもたかだか一世紀半ですからね。
「イメージのあれこれ」まとめはこちら。