水の神様を訪ねる 95 西吉前新田の水神社を訪ねる

豊橋駅をくぐりながら南西へと流れる牟呂用水の先の干拓地を訪ねる前に、もう一ヶ所歩いてみたい場所がありました。

 

豊川と豊川放水路の河口よりももう少し渥美湾に迫り出した感じで、「西吉前新田」があります。干拓地らしくぐるりと水路で囲まれた地域で、その渥美湾に面した堤防の近くに水神社があるのをだいぶ前に見つけていました。

どんな歴史がある場所でしょう。

 

牛川緑道から豊橋駅に戻った時にはまだ11時すぎでしたが、さすがに散歩の3日目は足の疲労感も半端ではありません。

そして10月中旬とはいえ日中は30度を超えている中、最終日は欲張って干拓地から干拓地を歩き切ろうという計画です。公共交通機関もない場所ですから、途中で挫折するわけにはいきませんね。

疲れていてもやはり干拓地と水神社がそこにあると思うだけで行きたくなるのでした。

 

 

*西吉前新田へ*

 

12時のバスまで少し時間がありました。歩き回る気力もなく駅のコンコースに座っていると、方向感覚がおかしいことに気づきました。

豊橋駅というのは「西口」「東口」があるのですが、三河湾がある方が西口です。

私には「南下」すると海につきあたる感覚が染み付いていることも一つですが、以前訪ねたこともあるのというのに、眺めていた地図でも豊橋の南側に海があるように思い込んでいたのはなぜだろうと、少し混乱しました。

方向感覚に自信があるというのも、狭い地域でのことだったと改めて思ったのでした。

 

さて、「卸団地行き」のバスが来ました。下車する予定は五号バス停で、いかにも干拓地の雰囲気の名前ですね。

新幹線の車窓からは豊川駅から豊川(とよがわ)左岸堤防のあたりは真っ平に見えていたのですが、バスで通ってみると堤防に近づくにつれて一段と高い場所へと上っているように見えました。そして馬見塚、高州町とすぎて、しだいに低くなって水田地帯が見えました。

 

左岸沿いにある馬見塚、そして高州町のあたりはかつて大小の洲だったのでしょうか。

 

バス停で下車すると、「干拓碑 吉前新田」と刻まれた石碑がありました。

ぐるりと囲んでいる水路の内側は、工場と介護施設のようです。

松の植えられた水路に沿って歩くと、海沿いの堤防への入り口に「豊橋海岸」という説明板がありました。

豊橋海岸は三河湾沿岸最奥部に位置し、干拓された地盤の上に海岸堤防が築造されています。

大型地震発生時(震度6弱以上)には地盤の液状化により最大5m以上の大きな堤防沈下が生じ、さらには地震直後に来襲する津波が堤防背後に流入し、約1,730haの甚大な浸水被害が発生すると想定されます。

このため愛知県では平成18年度から国土交通省の補助を受け海岸堤防耐震化整備を行っています。

 

その先の少し上り坂の道を歩くと、堤防の内側に排水機場のような施設があり、そのそばに緑青(りょくしょう)の屋根が美しい小さなお社が見えてきました。

御由緒はなく、「吉前水神社」と緑色で描かれた額が掲げられていました。

 

そばにある堤防への階段を登ると、その向こうに三河湾が輝いていました。

少し海風が出てきて、白浪も見えます。

予想外に堤防の幅が広いので多少風に煽られても海には転落しなさそうですが、海風にちょっと足がすくみます。

 

川風もそうですが、海風の強いこのような場所で、日夜働いてくださっている方々によって治水や利水が維持されていることに、あちこちを歩くようになってこの年になって知ることとなりました。

そして社会というのはこういう重積を担った市井の人によって成り立っているのだと。

 

どうかこうした方々とこの地域をお守りくださいと一礼して、また元来た道を戻りました。

 

 

 

「水の神様を訪ねる」まとめはこちら