水のあれこれ 338 豊川用水

ほんの数年前までは、愛知県内の用水路どころか河川名でさえほとんど知りませんでした。

 

2019年2月に南紀を回るのに名古屋までいくつ川を越えるのかと地図を見ながら書き出していた時に、豊川(とよがわ)放水路を見つけました。

木曽三川そして豊川放水路を知ったあたりから、まるでパズルが解けるように愛知県内の河川や用水路が立体的に見え始め、いつか少しずつ歩けたらと計画ができました。

2021年2月に矢作(やはぎ)川と明治用水を訪ねた時に、気になっていた愛知池に足を運んだことで知多半島への愛知用水を知りました。

 

この頃に、もう一つの渥美半島へも豊川用水があることを知りました。

愛知用水は住宅地の中を通りながら知多半島へ送水されているので地図でも見つけやすのに対して、豊川用水は県東部の山中のトンネル部分が多くどのあたりを通しているのか何度も見失いながら全体を把握するのに時間がかかりました。

 

水資源機構豊川用水総合事業部のホームページの「施設のご案内」では、以下の説明と全体像がわかる絵があります。

水の流れに沿って

 豊川用水は、奥三河の山々で降った雨を頭首工で取り入れたり、宇連と大島の二つのダムでため、水路によって遠く愛知県の渥美半島静岡県湖西市へ送っています。

 限りがある水を有効に使うために、豊川用水には、ダムや頭首工、調整池、幹線水路、支線水路、畑地かんがいの揚水機場などたくさんの種類の施設があります。

 宇連ダムの水は、およそ一日かけて川や幹線水路を流れて、約100km下流渥美半島の先端まで届けられます。

 豊川用水の最大の特徴は、宇連ダムの水が渥美半島の先端まで、自然の力(重力)だけで流れていきます。途中で、電気を使わないので、施設を管理する日常の経費が安くて済みます。

 

現在は、天竜川の佐久間ダムからも送水されているようで、そのため静岡県へも豊川用水が流れているのでしょうか。

そして、かつては渥美半島の表浜(遠州灘側)へのかんがいのための壮大な計画だったものが、現在は豊川両岸地域へ牟呂用水・松原用水として送水され、さらに蒲郡へも水が送られているようです。

 

 

*一世紀まえに「大ホラ」と言われた構想がそのまま*

 

少しずつ豊川用水の歴史が見えてきたのですが、驚くのはその宇連(うれ)ダムは、あの近藤寿市郎氏が県会に提出した「鳳来寺山脈にダムを築く案」そのものだったことです。

 

豊川(とよがわ)右岸側の鳳来寺山脈から左岸側への水路を導く、どうやって近藤寿市郎氏はその場所を見極めたのでしょう。

 

豊川用水総合事業部のホームページの「豊川用水のあゆみ」を読み、いつか部分的にでもいいから豊川用水を歩いてみたいと思っていました。

 

豊川用水のできるまで

 

 豊橋市を中心とする東三河地方は、古来より幾度となく干害に見舞われてきた地域です。特に渥美半島は大きな川がないために、日照りが続くと作物を育てるのに大変苦労していました。そこで、苦しむ人々のためになんとかこの地域に豊川の水を引こうと考えたのが現在の田原市出身の政治家 近藤寿市郎翁(後に県会議員、衆議院議員豊橋市長を歴任。)です。

 近藤寿市郎翁は視察に訪れたインドネシアでの農業水利事業をヒントに、豊川上流の鳳来町(現新城市)にダムを建設し、貯めた水を東三河地方に導水するという構想を抱きました。実現には地域の人々の協力が不可欠であることから、人々に構想を説き、自らも国等に精力的に働き掛け、先の大戦などでの紆余曲折がありましたが、昭和24年、宇連ダムを皮切りに国営事業として豊川用水の建設工事が始まりました。昭和33年には農業用水の他に水道用水と工業用水の開発が追加され、昭和36年愛知用水公団に引き継がれることとなりました。さらに愛知用水公団は昭和43年に水資源開発公団(平成15年に独立行政法人水資源機構へと改組)と合併し、20年の歳月を経て豊川の水は渥美半島静岡県湖西市まで行き渡り、この地方の農業、工業における今日の発展の礎となったのです。

 その後、老朽化施設の改築を目的とした豊川用水施設緊急改築事業が平成元年に始まり(平成11年完成)、国及び愛知県で実施されていた豊川総合用水事業を平成11年に継承(平成14年完成)、また、同年には水路の複線化等により、さらなる効果的な水利用と合理的な水管理を目指して豊川用水二期事業の建設工事に着手し、現在もなお工事は進められています。

 

気が遠くなるような年月を経て、あの渥美半島の美しいパッチワークのような農村の風景ができたのでした。

 

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら

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