記録のあれこれ 133 日本最古の道、山の辺の道

溜池のある古墳をつないで歩く計画でしたが、そこはちょうど山の辺の道のようで、あちこちに案内標がありました。

中山町の里山保存地区から次に国道を挟んで西側の黒塚古墳を訪ねたので、一旦、山の辺の道からは離れました。

このままこの道を歩いてみたいものだと、また次の計画が増えていきます。

 

帰宅してからあらためてWikipedia山辺の道を読むと、「日本史上(記録上)最古の道、日本現存最古の道」と書かれていました。

山辺の道(やまのべのみち)、古代読み:やまのへのみち、古風な表記:山辺道、旧字表記:山邊道)は、日本の古道の代表的な一つ。大和の古道の一つ。古代大和の山辺(やまのへ。山辺郡の語源にあたる域名)に通した道である、日本史上(記録上)最古の道、日本現存最古の道として知られている。

 

奈良盆地の東南にある三輪山の麓から東北部の春日山の麓まで、盆地の東縁、春日断層崖下を山々の裾を縫うように南北に走る。

 

道程

金屋の集落を後にして三輪山山麓を北へと行くと三輪山の神である大物主を祭神とする大神神社につく。大神神社は、日本最古の神社で大和国の一宮である。三輪山信仰は縄文または弥生時代まで遡るかもしれない。

大神神社からさらに北の沿道には、茅原大墓古墳・景行天皇陵・崇神天皇陵・櫛山古墳・西殿古墳・東乗鞍古墳・西乗鞍古墳などの古墳群があり、古代・邪馬台国を納めていた卑弥呼の墓とする説もある。古墳時代にはいると山麓地帯には墳丘長200メートルを超える巨大古墳が造られた。『古事記』には、「山辺道の勾の岡(まがりのおか)」の近辺に崇神天皇の陵(墳丘長242メートル)が、山辺道の近辺に景行天皇の陵(310メートル)があると記している。初期大和政権がこの地に誕生したと考えられている。

このように両天皇の墓が「山辺道」の近辺にあると『古事記』に記されているところから8世紀の初めにはこの道が出来ており、7世紀末の藤原京時代にもできあがっていたのではないかと推測できる。

現在では静寂さを取り戻しており、山裾の曲がりくねった道ではある。また、飛鳥、藤原の時代には、この海柘榴市が栄えていた。

 

大和川のそばにある「海柘榴市(つばいち)」はすぐに読み方を忘れてしまうのですが、地図で見つけた面白そうな名前が印象深く、今回の散歩でもそばを歩く予定にしていました。

この市は、政治の中心が主として奈良盆地の東南部にあった頃、定期的に市が立って栄えた。北へたどる山辺の道の起点であり、そこに初瀬街道がT字形に合し、さらに飛鳥からの山田の道、磐余の道などの主要な街道が集まり、また初瀬川を下り大和川に出る水運の河港もでき、水陸交通などの要衝の土地であった。その場所は三輪山の南、今の桜井市金屋付近である。

 

そしてこの山辺の道の時代からのちに、全国へと道が造られていくのですね。道の年表を考えるだけで、気が遠くなりそうです。

 

中学生や高校生の頃は、古墳とか奈良時代はあまりに遠い昔でちょっと眠くなる授業でした。

ところが祖父の水田周囲の風景や用水路への郷愁からあちこちの水路や川や干拓地そして溜池まで見て歩くようになったことで、古墳の周濠や日本最古の道にまでたどりついたのですから人生というのはわからないものですね。

 

奈良県内には地図で探す範囲では郷土資料館があまりないのですが、道を曲がると住宅地に古墳があり説明板があり、道を歩くと最古の道であったりと土地そのものが歴史の記録を残している場所ですね。

 

 

*おまけ*

 

Wikipediaの「山辺の道」の最初に写真とこんな説明がありました。

山辺の道/奈良県天理市付近。アスファルト舗装とはいえ旧態を感じられる場所の一例。ただし情趣を高めている辻堂(路傍の仏堂)は仏教系であり、神道系の祠ならともかく、道の整備には仏教公伝より遥か以前であるため、整備当初のたたずまいと異なることに注意。

 

イメージではなくより正確に歴史を知るというのは大事で、心しなければと思いました。

 

 

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