私の散歩は田んぼや水路や川を訪ね歩いているので、奈良盆地の南側の明日香村のあたりは水色の線もため池も少なさそうで今まで後回しになっていました。
ところがブラタモリで明日香村の美しい田んぼが映し出されていたのを見て、奈良時代から飛鳥時代へ遡ってこの地域の田んぼについて知りたいと俄然関心が出ました。
*欽明天皇陵の周濠と田んぼ*
散歩の二日目は、飛鳥駅へ向かいました。橿原神宮駅前から近鉄吉野線に乗り換えると、今までのどこまでも平地だった奈良盆地の風景から、高原へ向かう列車の雰囲気になりました。
飛鳥駅の東側に高取川が流れていて美しい水が流れ、西側には水田がありました。
駅から北へ300mほどの欽明天皇陵の周濠が最初の目的地ですが、街道沿いは奈良らしい灰色の瓦屋根と木壁の家々や蔵が続いています。
この辺りもまたフリージアが咲いていました。
東側へと集落を入ると、白っぽい土の道が小高い森の方へと続きその先が欽明天皇陵で、緩やかな坂を登ると周濠がありました。
欽明天皇陵
陵名は檜隈阪合陵(ひのくまのあいのみささぎ)。全長約140m、後円部径72m、前方部107mで、墳丘は3段築成で周濠を持ち、明日香村内では唯一の前方後円墳である。
欽明天皇のころには、百済から仏教が正式に伝わるなど、後に開花する飛鳥文化の源ともなる時代であった。
「日本書紀」によれば、欽明天皇は32年(571年)4月になくなり、9月に檜隈阪合陵に埋葬されたとある。欽明天皇の妃で推古天皇の母、堅塩媛(きたしひめ)を推古天皇20年(612)に合葬し、28年(620)10月には砂礫を檜隈陵の上に葺き、土を積みて山を成し、氏ごとに大柱を土の山の上に建てさせるという記事が見える。
今まで訪ねた周濠に比べると、山々が近く迫ってくるような起伏の多い場所です。
周囲の農家の家は灰色の瓦屋根で、新緑に美しく光っていました。
周濠のすぐ下に現役の田んぼがあり、その田んぼの中の道を東へと歩き始めると、周濠の堤に田んぼへの取水口が見えました。
天皇陵の周濠でつくられるお米、代々どのように管理されてきたのでしょう。
世の中知らないことばかりですね。
「米のあれこれ」まとめはこちら。
周濠についてのまとめはこちら。