祖父母の田んぼのあたりは江戸時代からの干拓によるものだったことを知ったのが、2017年のブラタモリを観たことからでした。
その時にはまだ「干拓」と「埋立」の違いさえよくわからなくて、周囲を淡水湖で囲んでいるのが干拓地ぐらいの認識でした。
ここ数年で日本の沿岸部の地図を拡大してくまなく眺めることで、干拓か埋立か、だいぶ見分けられるようになりました。
まあ、淡水をたたえている承水路があれば干拓地かなということと、牟田とか搦とかあるいは開作とかそれぞれに地域に残る地名から推察するぐらいですけれど。
今回歩いた岡山市東区も海沿いに水路があり沿岸部には広大な水田地帯が広がって、道路沿いに長細く家々が散在する典型的な干拓地の風景のように見えます。
ただ、西側は四角く水田が整然と描かれているのに比べ、吉井川沿いの地域は田んぼの形も不揃いに見えます。どんな場所なのでしょう。
*吉井川右岸の微高地*
西大寺を訪ねたあと岡山印刷局のそばの用水路とサイフォンで交差しているのが倉安川からの水路で、西大寺の近くで南西へ吉井川沿いの地域を潤しているようです。
その水路沿いに西大寺中央公園があったので、そこでおにぎりで昼食にすることにしました。
田んぼや水路を眺めてのおにぎりは格別ですからね。
県道28号線のそばでしたが、公園は一段低い場所にあります。水路沿いだからか低いのかと思いながら南へと歩くと、どうやら吉井川に沿った一帯は相模川右岸の自然堤防のような場所のようです。
堤防沿いの微高地に住宅が建ち並び、その一段下側に用水路が通っているのですが、そこへ降りる石段がそれぞれの家の間にありました。
途中から降りて、用水路のそばを歩いてみました。
静かな、それでいて水面に浮かぶ花が流れていくのを見るとけっこうな速さです。
かつてはそれぞれの家でもこの水を利用していたのでしょうか、洗い場もあります。
道の角や分水路のそばには花が添えられた祠がそこかしこにあります。
新しい家と木壁の美しい古い家と、誰かが掃除や手入れをしている気配を感じる用水路のそばの道でした。
自然堤防の上の住宅地はまだまだ続いているのですが、右手は水田が多くなりました。
5月初旬の岡山は、まだ田おこしが終わったくらいの時期のようです。でも不思議なことに稲の香りがどこからともなく漂っています。
用水路のそばに祇園神社がありましたが、東側の自然堤防上の道に鳥居があり、石段で降りるように参道がありました。
あの高いところが表通りのようです。
西大寺南公園のあたりで、吉井川の堤防に出てみました。河口から3kmほどでしょうか、児島湾と児島の山が見えます。
まだまだここからが広大な水田地帯になるのですが、江戸時代はどんな風景だったのでしょう。
この細長い自然堤防以外は遠浅の干潟のような場所だったのでしょうか。
*水田地帯へ*
もうしばらく用水路ぞいに歩いて金岡東町から西へと曲がり、バス通である県道215号線に入りました。
2時間に1本のバスを逃さないようにうまくバス停にたどり着かなければなりません。
どこまでも風景をさえぎるものがない干拓地の田んぼです。
このあたりでも麦が植っていて、滋賀を懐かしく思い出しました。
田おこしが終わったばかりの風景ですが、楽しい散歩です。と、のんびり歩いていたら、トンビに威嚇されました。
海抜0.1mの標識があり、やはり海のそばですね。
いつの間にか2万5千歩を超えて疲れました。歩くより、20分ぐらい立ったままでもバスを待つことを選び、上南中学校前バス停から14時55分のバスに乗りました。
乗客はもう1人だけで、広い広い水田地帯をバスが走ります。岡山らしい家と水路と田んぼの風景です。
*東区から中区の干拓地へ*
江戸時代に旭川から分流された百間川を渡ると、ここからは中区の広大な水田地帯です。
歴史
元禄7年(1694年)岡山県南部の沖新田干拓地の産土神として岡山藩主池田綱政の命により建立された。建立当初は岡山市福島にあったが、同年9月に岡山市沖元宮地に移転した。しかし、土地が低く冠水するなどの問題があったため、宝永6年(1709年)現在の地に移転した。(Wikipedia)
神社の「土地が低く冠水」というのも、干拓地ならではと言えるかもしれませんね。
ただ、境内には干拓に関する記録は見つけられませんでした。
さあ、あと2.5kmほど歩かなければ岡山駅に向かうバスに乗れません。
複雑に流れる水路を追う気力もなく田んぼを見ながら歩いていると、「田んぼに石を投げるな」と警告がありました。
田んぼに石を投げるなんてあり得ないですね。ほんと何にしても怖いのは人間と怒りつつ、私も何か怖いことをやらかしているかもしれないと我に返って、また下を向いてただただ歩きました。
足の疲れも限界でしたが、しだいに低い山が近づいてきました。かつては小島だったのでしょうか。住宅が増え「海抜2.9m」になりました。
福泊バス停のそばに、「上水道記念碑」がありましたが、1963年(昭和38)に完成したようです。
ちょうどバスが来ました。ここから上り坂で森の多い場所へ入り、ため池のそばを通ってカーブの切り通しを抜けると、岡山では珍しい山の斜面の崖っぷちに建物がたつ風景をすぎると下り坂になり、旭川左岸へと出ました。
吉井川沿いに、江戸時代からの用水路と干拓地を歩いた充実の一日が終わりました。
今夜は、干拓地から工業地帯へと変化した水島臨海工業地帯のそばに宿泊する予定です。
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