大和川保田遊水地の工事現場をあとにし、誰も歩いていない道を東へと数十メートルほど歩くと、また橋がありました。
「飛鳥川」で、ここから北へ120mほどで大和川と合流します。
飛鳥川が流れてきた南側を見ると、奈良盆地を取り囲む山々がはっきりと見えます。翌日はあの向こうの飛鳥川上流の明日香村を歩く予定です。
奈良盆地は四方の山々がはっきりと見えて、そこから流れ出てくる川がほぼ平らな水田地帯を緩やかに流れて最後は大和川となるのがダイナミックですね。
その分、この大和川へあちこちの川が合流する場所は、水が溢れやすく水田とするしかなかったのでしょうか。
さて、せっかく計画変更をして大和川左岸側を歩くのであれば、地図にあった周濠のある古墳を目指すことにしましょう。
レンゲの花が咲く水田地帯から大きな工場の横を南へと曲がると、少し周囲より小高い場所に住宅や鎮守の森がありました。
緩やかな坂道を上った先に、周濠の水面が見えました。
住宅と畑に囲まれた場所に「島の山古墳」があり、そこだけしんとした静寂がある場所です。
整然と柵が張られたところに、案内板が二つありました。
島の山古墳周濠(しゅうごう)部縦断調査について
古墳の主軸北端から周濠部の北端まで設けた調査区で、周濠部の調査区としては唯一周濠を縦断して調査した調査区となります。
この調査区での成果は、2個体のみではありましたが、元位置を留めたハニワが検出されたことで、後円部のハニワ列のラインが書きやすくなったという事が挙げられます。次には第1段階の斜面において葺石(ふきいし)と見られる石積みの跡が検出された点です。削平は受けていたものの、このことは古墳の復元案作成に大いに役立ちました。
反対に期待された結果が得られなかったのは、周濠の底から遺物がほとんど出土しなかった点です。この調査区に限らず、周濠に設定した調査区から出土する遺物の量は非常に少ないです。これは周濠の北端においても同様でした。通常は一番低い位置にある池底から遺物が出土する事があると言えます。
実は島の山古墳の周濠部は明治20年頃まで水田として利用されてきました。
周濠部の調査において水田として利用された面が検出された事が期待されましたが、そのような面は確認できませんでした。ということは、水田から池に用途を変更する際に水田面を削平したと考えられます。そのような記録は残ってはいませんが、水量を確保するために削平した可能性は否めません。
令和3(2021)年2月 川西町教育委員会
誰が読むことを想定したのだろうと思うような古墳や周濠についての専門的な説明が必ずある、これが奈良ですね。
そして気が遠くなるような長い時間をかけてもわからないことはわからない。
生活が常に長い歴史につながる奈良ですね。なんだかかなわないなあと思いながら、もう一枚の案内板を読んでみました。
*「『周濠』の利用のされ方の変遷」*
「周濠」の利用のされ方の変遷
古墳の周囲にある窪地の事を一般に「周濠」と呼びますが、「周濠」という呼び方には水が張ってあるという意味合いがあります。現在の古墳の周濠のあり方を見ると、多くの古墳の周濠には水が張ってあり、周濠の言葉に違和感はないと思います。しかしながら、実はここに限らず、古墳の周濠は元々水を溜めるために造ったものでは無かったというのが通説です。
現にこの島の山古墳も水が入れられる前は水田として利用されていました。ところが明治16年(1838)、明治19年(1886)と続けざまに干ばつに見舞われます。それを受けて明治20年頃に島の山墳丘周辺の窪地で営まれていた水田を池として利用されるようになり、現在に至ります。
それを裏付けるように島の山古墳の周濠内には「東池田」「西池田」の文字が残っています。また現在集合部が水田として利用されている川合大塚山古墳の周濠部も同様に「池田」という文字が残っています。また、東側造出(つくりだし)の発掘調査において水田が営まれた時代のものと考えられる池の跡が検出されました。
では、なぜ古墳の周囲には周濠があるのでしょうか?まず、古墳は基本的にお墓であるので、周囲と空間を区切るという意味があるでしょう。しかしながら、もっと現実的な理由としては掘った土を墳丘に利用するためであったという事が挙げられます。別の場所から土を持ってくるより現地で調達できるのですから、そのほうが簡単というわけです。もう一つの理由としては周囲を掘ることによって残った場所(この場合、墳丘)が乾燥化されるという事が挙げられます。このことによって、墳丘での作業が格段に容易になります。
発掘調査現場を見る機会がありましたら、調査区の端を見てみてください。ほとんどの調査区で溝が掘られています。これは溝に水を流すことで、調査区内を乾燥化して調査を行いやすくするために掘られています。
令和3(2021)年2月 川西町教育委員会
「墳丘周辺の窪地を水田として利用していた」
「周囲を掘ることによって、そしてその溝に水を流すことによって墳丘の乾燥化が容易になる」
少しずつ周濠を知った気になっていましたが、まだまだ奥が深いものでした。
2020年に初めて「周濠」を知って以来、奈良や大阪の周濠を訪ね歩くようになりました。
そして「環濠集落」も気になり始めました。
その見聞の記録をまとめておきます。
<2020年>
<2021年>
<2022年>
<2023年>
<2024年>
*おまけ*
この記録をまとめていたときに、聞き覚えのある場所の火災のニュースが入ってきました。
最初の計画で訪ねようと思っていた大和川右岸側の窪田地区にある中家住宅という国の重要文化財で、地図では二重の濠が描かれていて気になっていました。「環濠屋敷」というようです。
「記録のあれこれ」まとめはこちら。