欽明天皇陵の周濠と田んぼは、なだらかな丘陵に囲まれた場所でした。
地図でもこのあたりは山のあいまのように見えたのですが、ここが奈良盆地にぽっかりと浮かぶような大和三山の南側に見えていた山々の地域のようです。
こうして散歩の記録を書くために写真を見直していても、そのなんとも穏やかで美しい風景に惹き込まれていきます。
そしてその数キロの間に、昔習った飛鳥時代のさまざまな人物や出来事の痕跡が残っているというのに、現在は静かな静かな田園風景でした。
*天武天皇陵へ*
ここからはちょっとしたハイキングになりそうです。
濃いピンク色の芝桜が鮮やかで、畑の一角には農家の方が育てている色とりどりの花が咲いていました。田畑のそばに美しい花を育てるようになったのはいつ頃からなのでしょう。
欽明天皇陵から東へゆるやかに蛇行する畦道を歩くと、周濠よりも高い位置に棚田がありました。天水灌漑だろうかと思いながら歩いていると、田んぼの一角にパイプが出ていました。ここもまた吉野川分水の水でしょうか。
カエルの声が賑やかになってきました。下平田ため池という小さな池をすぎると片側が切り通しになり、斜面に大きな石が見えてきました。「鬼のせっちん」です。
鬼の雪隠(せっちん)は墳丘土を失った終末期古墳(7世紀後半・飛鳥時代)の石室の一部である。
道端に古墳があり、美しい家々や田畑や丘陵に草花が咲き乱れ、鳥が囀り空は広く、全方向美しい場所で「もう、何もいらない」とふと思いました。
この道は地元の小学生の通学路のようです。
前方に小高い場所が見えてきました。天武天皇陵です。周濠はないけれど、せっかくなので訪ねてみました。古墳の後方から入ると、地元の方がお掃除をされていました。
天武・持統天皇陵
壬申の乱(672年)に勝利し、律令制の基礎を築いた天武天皇と、その皇后で次に即位し、天皇としてはじめて火葬された持統天皇が合葬されている御陵(檜隈大内陵)である。墳丘は現在東西約58m、北径45m、高さ約9mの円墳状をなしている。鎌倉時代(1255年)に盗掘され、その際の記録である『阿不幾及山陵記』に墳丘・前室・墓室内の様子の記載がある。(以下、略)
説明板のすぐそばまで隣家の畑があり、ネギと絹さやが植っていました。
*聖徳太子お誕生所へ*
ゆったりした歩道のそばには白いタチツボスミレが咲いています。
田おこし前の緑が美しい田んぼを眺めながらほとんどすれ違う人もいない道を歩くと、滔々と流れる水路が現れました。地図にはない水路で、これもまた吉野分水でしょうか。
灰色の瓦屋根がひときわ大きい美しい建物が見えてきました。なんと村役場ですが、周囲の住宅と同じような建物でした。この辺りが明日香村の中心地でしょうか。
ここからまた木壁の美しい良い香りのする集落の中の道を東へと歩くと、少し高くなった場所へ参道のような道がありました。
入り口に2本の数メートルぐらいの石柱が建っているだけですが、ここが聖徳太子お誕生所のようです。
せっかくなので石柱の先の「跡地」を見てみようと、石畳を歩いて上ってみました。
その先に広がっていたのは、なんと田んぼでした。
参道のすぐそばの家々の前に分水路があり、聖徳太子お誕生所の田んぼからの水が二手に別れて流れていました。
どこから水を得ている田んぼなのでしょう。どうやって管理されているのでしょう。
飛鳥時代、中学生の頃に習った聖徳太子や物部氏、曽我氏あるいは大伴家持といった断片的な知識しか思い出せないのですが、その歴史的な場所が1400年以上経ってそのまま田んぼになり生活の場でもある。
ほんと、かないませんね。
たしかにサイクリングや散策をしている人にも出会いましたが、明日香村は観光地というイメージとは全く違いました。
あの五箇荘と似ているかもしれません。
ああ、津々浦々、水田が健在の風景は、きっと何世紀後も維持されていくに違いありません。
ふわりふわりとめまいのような感覚に陥りながら、飛鳥川へと向ました。
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