水のあれこれ 379 吉井川「江戸時代から続く、農業用水」

地図で選んだ場所を歩くいきあたりばったりの散歩で、帰宅してからその地域の資料を読むことで初めてその風景の意味や歴史が少しずつつながっていきます。

 

今回もまた「歴史ある農業用水を次世代へ引き継ぐ 国営かんがい排水事業吉井川地区」(農林水産省中国四国農政局、吉井川農業水利事務所)と、「地域農業の近代化を目指して 国営吉井川農業水利事業」(「水土の礎」)の二つの資料を見つけました。

 

歩き出してから計画変更ばかりの1日目でしたが、地図で見つけて歩いてみたいと思った場所が、ちょうどこの吉井川農業水利事業の地域に重なっていました。

左岸側は大用水が東の牛窓から南の水門町まで広大な地域を潤し、右岸側はあの新幹線の車窓から見える田園風景と東区の広大な水田地帯を潤しているようです。

ちなみに、西大寺から自然堤防沿いに歩いた時の水路は三膳樋用水だとわかりました。

 

 

 吉井川下流地域は、岡山県の東部に位置し、県三大河川の一つである吉井川の下流域を中心とした、岡山市備前市、瀬戸町、熊山町、和気町、牛窓町邑久町及び長船町の2市6町にまたがる水田約5700haと周辺丘陵地展開する畑地約1200haの地域である。この地域の用水源である吉井川は流量の豊渇の差が著しく、渇水期には、用水不足、豪雨時には排水不良をきたしていた

 また、畑作地帯においては、ため池の水源も乏しく、灌漑施設が不十分で天水に頼った農業が営まれていたところである。このため主産地である路地ぶどうは旱天が続くと収穫皆無となることもあり、野菜産地では、播種期あるいは旱魃時には人手による水運びの重労働も余儀なくされてきました。この下流地域に展開する水田とその周辺畑地の受益地用水の安定確保と合理的用水配分により地域農業の発展を図るため、吉井川農業水利事業が昭和63年度に事業が完了した、吉井川水利事業の概要と、現在の状況について紹介する。

(なお、市町村合併により瀬戸町は岡山市牛窓町邑久町長船町瀬戸内市、熊出町は赤磐市となっている)

(「水土の礎」「はじめに」)(強調は引用者による)

 

「先祖代々に亘る水との闘いを集結させた」と記念碑に書かれていたのが1988年(昭和63)ですから、ほんとうに驚異的な改善だったのですね。

 

1960年代から70年代、夏休みに祖父母の家に遊びに行くと、当時父親の転勤で住んでいた雨の多い山間部と違って雨がほとんど降らず、子どもにとっては過ごしやすい場所でした。

お土産の特産のぶどうも楽しみで、岡山はなんと豊かな場所なのだろうとあこがれていました。今考えると「晴れの国岡山」は当然旱魃には弱く、祖父母の地域が豊かだったのは1925年(大正14)に一足先に完成した高梁川東西用水の恩恵が大きかったのでしょうか。

 

 

 

*「江戸時代から続く、農業用水」*

 

1980年代終わりごろに、吉井川流域の国営かんがい排水事業によって先祖代々からの水の闘いが終わったとはいえ、この地域は長い農業の歴史を持つ地域でもあるようです。

 

吉井川河口の東区から旭川河口の中区のあたりの干拓地も江戸時代のものらしいことは、これまで読んだ資料でなんとなく知っていたのですが、「歴史ある農業用水を次世代へ引き継ぐ 国営かんがい排水事業吉井川地区」の「江戸時代から続く、農業用水」を読むと、ほんとうに干拓というのは長丁場であることがわかりました。

 

その中に「備前国絵図」が載っていました。

備前国絵図

本図に示される時期は1687~1691年の間と鑑定される。沖新田や幸島新田の開発に伴って誕生した。吉井川地区の受益地である沖新田、幸崎・幸田・幸西などの村名が確認できる。

 

現在の地図と見比べると、東区と中区の干拓地は現在に近いぐらい沖合へと広がり始めているでしょうか。

それに比べて、吉井川左岸河口の水門町のあたりの「幸西」「幸崎」「幸田」はまだ海に囲まれていますし、現在の牛窓のあたりの平地はほぼ海で小さな島々があったように描かれていました。

 

 吉井川は、岡山県東部に位置し、旭川と共に備前国の二大河川で、かつては「東の大川」と呼ばれていました。その源は中国山地三国山(みくにさん、標高1,252m)に発し、南に流れて児島湾の東端に注ぐ一級河川です。

 流域の開発は、県下三大河川の中でも最も早い1,700年前からであり、平安初期には下流部の水田開発が始まったと言われています。

 また、吉井川は岡山県南部と北部を結ぶ運輸系統の大動脈であり、高瀬舟による水運が江戸時代以前から発達し、流域は栄えていきました。

 

 江戸時代前期には、財政難に見舞われていた岡山藩の石高増強策として大規模な新田開発が展開されました。この開発の指揮を執っ他のが津田永忠であり、左図の「備前国絵図」にも示される幸島(こうじま)新田や沖新田などの干拓を行いました。

 また、農業用水を取水するために、吉井川に田原(たわら)井堰や坂根堰、吉井堰といった多くの井堰が築造されました。

 

新幹線の車窓からたまたま見えた堰が気になって歩いてみたいと思った計画でしたが、ますます用水路をたどってみたくなりました。

 

 

*おまけ*

 

富士川のかりがね堤で知った「備前堤」とか利根川右岸の「備前渠」とか、備前がつく土木事業はどのような歴史があるのかも気になったままです。

あるいは4月に奈良を訪ねた時の箸墓古墳の「吉備系の土器」とか、大昔から人や物や技術が行き来していたことに気が遠くなりますね。

 

 

 

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