境界線のあれこれ 11 <豊かさと貧困、そして免罪符>

1980年代に2年間の難民キャンプでの任期を終えたあと、「背後カロリー」の考え方に影響を強く受けた私は、肉を食べないベジタリアンになりました。


それとともに、自分が贅沢な生活をしている先進国側に生きていることに強い罪悪感を感じるようになったので、できる限り「物」に頼らない質素な生活をしようと決めました。


1980年代終わりの頃の日本は、今考えると、まだまだ不便さが日常の中にたくさんありました。
シャワーが独身者向けの賃貸住宅に一般的になっていったのもこの頃でした。
まだパソコンはなくて、大きなワープロが出始めました。
携帯電話は社長とか医師とか特別な人だけでしたから、固定電話が一般的でした。


それでも途上国の生活とは天と地の差があるほど、物質的に豊かな社会でした。


難民キャンプから戻ってきてからの生活では、まず冷蔵庫を持たないことにしました。その日に食べる分だけを買えばよいと。
洗濯機も本当は買わないでおきたかったのですが、熱帯の国と違って手で洗って手で絞っただけでは乾かないので、しぶしぶ買いました。
電話は、電気を必要とする留守電付きの電話はやめて、当時NTTが設置してくれる電話だけにしました。



私とニセ科学的なものについてのあれこれバイブル商法と私のあちゃーな経験でも自分の暗黒史を書きましたが、まぁ今思い返すと、感情に突き動かされていろいろなことをしていたなぁと、ちょっと赤面するのですけれどね。


<10年の変化>


1980年代終わりからの、日本社会の十年間の変化は劇的といってもよいことがたくさんありました。


固定電話から携帯電話へ、そして電話での通信だけでなくインターネットを通じてのメールでのやりとりなど、ちょっと前の時代では「未来」のようなことが実現しました。


私も、「留守電がないと連絡がとれない」と友人からさんざん文句を言われたので、留守電・ファックス付きの電話に替えましたし、1990年代半ばになるとパソコンの必要性も出てきました。
私の質素な生活はあえなく、数年で終わりました。


日本だけでなく、貧困や社会の不正義と戦っていた現地の友人たちの生活もまた変わりました。
2年おきぐらいに友人達を訪ねていましたが、一見、生活は以前と同じ状況のようでも少しずつ変化がありました。


「出稼ぎの女性化」で書いたように、子供たちを置いて海外に出稼ぎにいって得た現金収入によって、子どもを学校へ通わせたり、医療を受けさせたりすることが可能になっている様子がわかりました。


私の友人の助産師も、彼女の年収に匹敵する緊急帝王切開術の医療費を支払って無事に出産できたのは、彼女のお姉さんが中近東へ出稼ぎに行ったおかげでした。


海外の友人たちとの連絡も1990年代初めの頃は、手紙しかありませんでした。
友人を訪ねる計画を立てるときには、無事に配達されるかどうか不安に思いながら、少なくとも1ヶ月前には渡航予定を手紙で出す必要がありました。
「了解」の返事が届くまで2週間ほどかかり、とても不安でした。


そのうちに国際電話が通じるようになり、90年代終わりにはメールで連絡が取れるようになりました。


これも、途上国への開発援助としてのインフラ整備や経済開発が貢献をしたからにほかなりません。


こちらの記事に次のように書きました、

途上国の豊かな資源を巡って、海外から大企業が進出し、土地や資源が経済力の強い一部の人のものになり、貧富の差が拡大していました。

私が豊かだと思っていた社会はこうした不平等の構造であり、貧困や人権抑圧の上に自分が豊かさを享受してきたことに衝撃を受けました。

そういう事実を実際に見聞きしてきたので、今でも基本的にこの思いは変わりません。


でも多国籍企業ロゴマークを見て憎しみの感情に突き動かされることはなくなりましたし、物質的に豊かな生活を私が一人放棄したからといって何の免罪符にもならないと思うようになりました。





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