気持ちの問題 42 <何を「怖い」と感じるか>

子どもの頃に何が怖かったのかと思い出すと、小学生になる頃は夜の暗闇でした。


夜中に活発な新生児が、窓の外が白々と開けてきた朝方に急に深い眠りに入ることが多いのをみると、闇を恐れる様な気持ちはもしかすると生まれもってあるのかなと考えたりすることもあるのですが、まあ、胎児の時から朝方や日中に深く眠る傾向があるようなので、これは私の勝手な思いこみかもしれません。


もうひとつ、不思議な「怖さ」があります。
子どもの頃に一人で留守番をしていると、親が帰宅するまで不安で不安で仕方がなかったことでした。
「どこかで事故に会うのではないか」「突然死んでしまうのではないか」と。
その不安は、数年前まで続きました。


まだ両親がなんとか自宅で生活をしていた頃、時々、見守りに帰っていました。
帰り道は、母が車を運転して駅まで送ってくれるのですが、なぜか母が家に無事に帰り着いたかどうかがとても気になって不安になるのでした。
会っていない日に母が運転していてもそれはあまり心配しないのに、私を送ってくれたあとだけは、「家に戻れたか」が気になってしかたがないのは何故だったのだろうと、今も時々考えているのですがよくわかりません。


私が幼い頃に兄弟が入院して、母が付き添いで家を空ける時に祖母の家に預けられた時に好きな食べ物も頑と拒否して泣いた記憶を以前書きました。
もしかしたら、そのまま「親が戻って来ないのではないか」という不安が、成人してからもどこかに強く残っていたのかもしれません。




<「怖い」の反動も強かったのかもしれない>


あれは「何か得体の知れない不安とか恐怖」への反動だったのかもしれないと、思い返すことがあります。


母の生まれ育った地域に、らい療養所がありました。
幹線道路からかなり離れたことろにその療養所があって、そばを通った時に「何の病院?」と尋ねたのでしょう。1960年代ですから、まだ日本では偏見も強く隔離政策が続いていた時期でした。
親が、きっと答えに窮しながらも説明してくれたことが、子どもの心の中に「世の中にそんなに恐ろしい状況で生き続けなければいけない人がいる」ことへの恐怖心として残りました。
病気に対してではなく、一生そこで生きなければいけないとか、家族や親戚からもいない存在のように扱われることがあることに。


しばらくしてまた、その病院の近くを通った時に、「看護婦になってあの病院で働きたい」と言ったのでした。
たしか小学校3年生ぐらいでした。
親は何も言いませんでしたが、賛成してくれている雰囲気ではなくとまどっているように見えました。あれだけ娘には看護婦になって欲しいといっていたのに。


それから10年ほどたった頃には、私自身が看護婦になることにもあまり積極的ではなく、女だから専門学校の成り行きで看護学校に入りました。


看護学生の時に、多摩全生園に行く授業がありました。
全生園で生活している方々のご自宅に上がらせていただき、話をうかがいました。
また、それから数年後にインドシナ難民キャンプで予防接種とともにハンセン病結核の治療プログラムが私の仕事になり、ハンセン病の難民の方々に直接、薬を手渡すことになりました。


その頃には、私にとってハンセン病は恐れることもないものになりました。


小学生の頃に療養所で働きたいと思ったのは、現実を知らずに心の中で作り上げて行った怖さに打ち勝つために、正義感でなんとかしようとしたのかもしれないと思い返しています。
人生への怖さや不安から理想へとひとっ飛びしやすかったのでしょう。


「善意と正義感」という言葉を聞いた時に、腑に落ちたのもこんな自分の経験がありました。
「善意と正義感」にかられる時には、自分の心の中にある不安や怖さの裏返しかもしれないと。
だから、やっかいなことになるのだろうなとすぐに理解できたのでした。
自分が正しく良い人であろうとすることで、その不安から逃れようとする呪縛のようなものですからね。
独善的になりやすいのだと思います。




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