散歩をする   100 <「干潟」を歩く>

 ブログ移行後、最初の記事が「散歩をする 100」になるなんて、ちょっとうれしい気分ですね。

 

さて、房総半島の地図を見ていたら、「干潟」という地名があるのを見つけました。

谷津干潟のように海辺ではなく、少し内陸部よりの場所につけられたこの地名に俄然興味がわきました。

 

検索しても干潟駅の説明しか出てこないのですが、その中で干潟駅が「1898年(明治31年総武線の駅として開業」したことと、「旧大日本帝国海軍香取航空基地の跡地に造られた工業団地」があるという説明から、おそらく明治時代に干潟が干拓地になり、軍の施設や水田へと開発されていったのだろうと推測しました。

 

ところが、偶然見つけたこの地名から、房総半島の壮大な歴史の一端を知ることとなりました。

 

*350年前は大きな湖だった*

 

JR総武本線干潟駅周辺の西側は山があり、反対に東側には用水路が張り巡らされて干拓地だということが想像できます。

ではその水源はどこなのだろうと検索していくうちに、大利根用水を知りました。この用水は戦後1950年(昭和25年)に完成しているのですが、その説明の中にある「干潟八万石」という言葉から、江戸時代に干拓が行われていたことを知りました。

 

千葉県のホームページに「干潟八万石の誕生」があります。

「干潟八万石」の誕生〜椿の海干拓

旭市匝瑳市東庄町にまたがる「干潟八万石」と呼ばれる約5,100ヘクタールの農地は、寛文10年(1670年)の干拓により海から農地へと姿を変えました。田んぼを掘ると海の貝殻に会うことができます。
当時の江戸は、人口の増加に対し十分な農地がなかったので、お米の価格が上がり続けていました。このため、江戸の町人、白石治郎右衛門と、大工の棟梁であった辻内刑部左衛門は、鉄牛禅師の助けを得て幕府に干拓を願い出て、現在の「新川」を掘り農地が生まれました。
更に排水をよくするため、干拓地内に大寺川、鏑木川、五間川、七間川を掘り、「惣堀」と呼ばれる干拓地を囲む用排兼用の水路やため池も整備しましたが、干拓地に必要な水を十分得ることはできませんでした。
また、新川の掘削によって、下流干拓地より標高の高い水田では地下水が低下し水不足となりました。干拓地の水害を除くためには下流の用水問題も解決する必要がありました。
大正12年からは、新川を掘り広め、吉崎堰、駒込堰、干潟堰を造り地下水位の低下を抑えましたが、大正13年旱魃を契機に、野口初次郎は利根川からポンプとトンネルなどで用水を引くことを考え、昭和10年より工事を開始し、干潟耕地や海岸地帯を旱魃から守りました。
その後施設は全面的に改修され、東総地域の農業を支えています。干拓より330年余りを過ぎた今、水田の区画整理により新たな農地に生まれ変わっています。

 

江戸時代初期までは、このあたりは椿海(つばきのうみ)と呼ばれた大きな湖が、九十九里浜の近くまであったようです。

 

房総半島というと、海の近くまで山が迫っていてわずかな平地に住宅地や農地があるイメージでした。

そういえば内房は何度か行ったことがあるけれど、外房は行ったことがありませんでした。

 

 

この目で「干潟」のあたりを見てみよう。

散歩の計画が決まりました。

 

 

 

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