米のあれこれ 105 「生きるための米を没収された悔しさ」

岩室民俗史料館で撮らせてもらった写真の中に、戦争中の話が額に入って展示されていました。

 

生きるための米を没収された悔しさ

 

 母・姉妹で知り合いの横曽根から米を譲り受け、それぞれの米を背負い歩いて山道に入る。当時間瀬に入る道は一本道、戦時中統制品である米の移動は厳しい。途中樋曽辺りで警察の検問に合い、親子で岩室の大きな検問所のようなところに連れて行かれ、取り調べを受け、やっと運んできた米は全部没収され、しかも後日学校まで警察が来て私の学業まで調べられ、悔しさで瞼に涙が浮かびました。その悔しい思い出は今八十三歳になっても忘れることができません。その頃私は小学校六年生ごろだったと思う。

 間瀬は米が無い村、生きるためにはほとんどの人達がこのような経験をして来た。戦争は恐ろしい。

 今は子供、孫達に恵まれ、JA職員として間瀬の組合員からも可愛がられ幸せの生活で感謝の毎日である。

  平成二十八年四月吉日   間瀬  幸村 テリィ   八十三歳

 

 

私の亡き母と同世代の女性の記憶です。

 

間瀬は海側の集落で、山道を越えて米を運ぶ大変さもさることながら、当時はまだ新潟平野も米どころというよりは、収穫量の少ないどぶね農業だったことを知ると戦時中の大変さだけではない意味が重なりますね。

 

この「米のあれこれ」を書き始めたきっかけは、「米作農家の場合、嫁に行った娘に対しては一定の米を無料で送れた」ことを母の昔語で知ったことも一つでした。

 

戦時中から戦後の「生活の中の米」について、もっと知りたいと思った時には祖父母もそして父母も鬼籍に入ってしまいました。

各地の史料館を訪ねる時には、その答えも探しています。

 

平和とは、積み重ねてきた生活の細々したことのひとつひとつを維持できることであり、社会のさまざまな理不尽にも打ち勝てるようにひとりひとりが普遍性を求め続けられることなのだというあたりまで見えてきました。

 

 

 

 

 

 

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