大通川(おおどおりがわ)放水路の名前がわかったので帰宅してから検索してみると、今までも各地の農業と治水・利水のまとめを読むことができた「水土の礎」の「新川ー期 農業水利事業」に詳しい説明がありました。
その中に、あの岩室民俗資料館で見た江戸時代のものだろうかと思った古地図があり、こう説明がありました。
平安後期、寛治三年(1089年)に描かれた越後の古地図で、俗称「寛治図」と言われ新潟平野のほとんどが海中に没している。
なんと11世紀の古地図でした。
平安時代には海で、そこから潟になり、1950年代ごろから排水の技術とともに新潟平野になった、そんな感じでしょうか。
*4本の樋曽山隧道の歴史*
地図で見つけた弥彦駅から北へ数キロの山を貫いているのが樋曽山隧道とわかりましたが、この「水土の礎」に詳しく説明がありました。
(西蒲原上流域の排水を直接海に排除する4本の隧道)
1. 樋曽山隧道(Qmax=19.69m3/s、L=2,300m)
旧岩室村と旧巻町の境界付近に樋曽山隧道がある。大河津分水開通後この地域の水害は減ったが西川西部弥彦山麓地域の排水は不十分だった。排水を受け持つ矢川が水位の高い用拝兼用の西川に排水されていたからである。
そのため大雨が降れば逆流し湛水被害に苦しんでいた。
明治34年大河津分水洗堰に西川閘門を設け、西川の流水を制御したが西川は生活用水にも使っており治水の根本的な解決に至らなかった。
幾多の曲折の後、昭和8年に県営事業として岩室村樋曽地点から弥彦山系をくりぬき日本海側へ放出する樋曽山隧道が着手し昭和14年に矢川と西川は分離され悪水は隧道を通って日本海へ流れた。
2019年に大河津資料館を訪ねたときには、明治から大正時代の山を開削して日本海側へ放水路を造ったことに圧倒されたのですが、排水との闘いはまだまだ続いていたようです。
2. 新樋曽山隧道の建設(Qmax=47.5m3/s L=3,075m)
樋曽山隧道は昭和22年の落盤で機能が低下。雨が降り続くと湛水し住民は舟による生活を強いられた。
その後機械化による営農の変化等で矢川の改修と新たな隧道建設の必要に迫られた。昭和36年に樋曽山隧道に並行するルートで着手され昭和40年に完成し、洪水の心配や湛水の恐れも無くなった。
3. 国上隧道の建設(Qmax=47.2m3/s L=3,659m)
本施設は御新田排水機場から西川へポンプ排水している西川流域(2,040ha)と新樋曽山隧道から日本海へ排水している矢川流域の上流部(1,330ha)の洪水をカットし寺泊野積海岸から日本海へ自然排水する水路で国営西蒲原地区で建設し平成2年に完成した。
4. 新々樋曽山隧道の建設(Qmax=105.9m3/s L=3,029m)
大通川放水路末端、樋曽地点から弥彦山系を掘り抜き日本海へ放出する隧道。大通川上流部8,190haと矢川流域5,250haの内、矢川流域の一部西川流域を除いた6,620haの排水を受け持ち国営西蒲原地区で建設し平成11年に完成した。
前述のように樋曽山隧道と新樋曽山隧道は併設し呑口で約120m、吐口で約150m離れている。
地質調査結果から両隧道の中間に新々樋曽山隧道を通すことが経済性、安全性、排水効率から有利であり路線選定した。
地図で見つけた弥彦山へ向かう水路は、地図では3本の水路で海側には水路か川が1本描かれているのですが、検索してみるとなんともすごい場所でした。
地図の水色のまっすぐな線とともに「樋曽」という地名に、きっと何かがあると思ったのは正解でした。
そして改めて地図を眺めると、水路の対岸、北東に「舟戸」地区があります。
もしかして、「雨が続くと湛水し住民は舟による生活を強いられた」と関係があるのでしょうか。それとも、舟運の歴史があるのでしょうか。
またやり残した宿題が増えました。
大体の距離感が掴めたので、水田地帯を歩いていつかは樋曽山隧道を訪ねてみたいものです。
「水のあれこれ」まとめはこちら。
「樋」についてのまとめはこちら。