岩室民俗史料館の展示物の量に圧倒されながら、私は目指す地図や写真を見落とさないようにと見学しました。
なかなか見つからないので「潟がわかるような古地図はありますか」と尋ねると、「それとは関係ないかもしれませんが」とその場所へと案内してくださいました。
*かつては海側と山裾が栄えていた*
一つは「袖なしの地コトバ」という図です。
越後平野と日本海を隔てる弥彦山・多室山・角田山の海側と内陸側で、使う用語がきれいに分かれている図でした。
10年ほど前から少しずつ信濃川流域を地図で追い始めた当初は、この日本海沿いはほとんど人も住んでいないのだろうと思っていました。
ところが路線バスもあり、山と海にへだたれながらも海岸線に集落がずっとあります。
海側は漁村だったようです。
もう一つは江戸時代のものでしょうか、山々が描かれてその山裾ギリギリに水辺が描かれているのですが、そんな場所にたくさんの集落があり、「岩舟都とす」という一文も読めます。
最初はその水色に塗られているのは日本海側だと思ったのですが、よくよく見ると「大沼」「下沼」と書かれていてその先に「信濃川」と書かれています。
山の内側の「潟」が描かれていたのでした。
そしてもう一つ、「岩室温泉開湯300年(正徳3年1713年 温泉所開設)」という図で、多室山の東側の山沿いに今もある岩室温泉の中心部の絵です。その中に「矢川は氾濫し、米の収穫は一定しませんでした」と書かれています。
昔は山の内側は排水が悪い地域だったことがわかります。
*昭和30年代ごろの潟の写真*
貴重な絵図が保存されていて良かった、訪ねてみて良かったと思いながら廊下を歩いていると、古い写真が何枚も額に掲げられているのに気づきました。
収穫した稲を天日干しにしたり、農作業の合間にみんなでご飯を食べている写真、子どもたちが水路にかかる橋の欄干に座っている写真、そして「昭和34年撮影、シロカキ」と当時のトラクターが写っているなど数々のセピア色の写真です。
その中に一枚、「撮影年不明 舟で稲の搬入」という、ここにもほんとうに湖かと思うような水面が広がり、畦道が細長く堤防のように続いている写真がありました。
「どぶね農業」、私が生まれた頃にはまだ新潟平野を始め各地でこうした排水の悪い水田での作業が行われていたことをこの歳になって知るようになったのでした。
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