記録のあれこれ 16 <新生児についての記録>

今回もY-Sanaさんからいただいたコメントから考えたことの続きです。
SNSという「その話のどこまでがどのような事実か」を確認する手段がないという限界はあるのですが、こんさんのお話「産後のトラブルを考える」のさとえさん、あおばさん、さらさんの時と同じく実際の御体験から葛藤し続けた表現を、Y-Sanaさんのコメントの隅々から感じ取っています。


ですから、ご本人を確認することはできなくても、そこから経験のなかにひそむ理論をたぐりとって法則化するためのヒントがあります。


さて、Y-Sanaさんのコメントは何度読んでも、胎児から新生児という人生でもっとも弱い時期に、大人の求める理想や信念が実験のような方法を広げさせてしまうことの残酷さに、大人側というのはなんと無自覚なのだろうと胸が痛くなります。
いえ、人ごととして痛みを感じているのではなく、私自身が「自然なお産」とか「母乳で育てる」という鵺のような雰囲気を広げることに加担してしまった罪悪感にうちのめされそうになります。そして、もうそんなことはやめようと思っても、鵺のような雰囲気にあらがう難しさも。


そのいただいたコメントの中で、そう、私がブログを続けている理由はそれが問題と感じているからだと思った箇所があります。

カルテをとって見た時、崖から突き落とされた気分になりました。助産師はひどい記録をきちんと書き送りして交代していくのですが誰ひとり解決しようとしない。

きっと周産期看護に携わっている人たちは、「なんてひどいことを書くのか。私たちはちゃんと観察しているし、記録もしている」と反論したくなることでしょう。


たしかに、医師や看護師・助産師が少なくとも生後1週間の新生児を継続して観察し始めたのが1960代前後でしょうから、半世紀前に比べればその観察の方法は積み上げられてきました。
それによって、ひどい黄疸や栄養不足に陥ったり、あるいは早期からの感染症で呼吸障害やけいれんで予後が悪くなるような新生児は激減したことでしょう。


でも、私も「ひどい記録をきちんと書き送りして交代していく」こと、それは新生児の観察の視点が半世紀前ぐらいで止まってしまっているからだと思えることがあります。


「日々観察し、事実が何か逡巡し、そして記録にしていく」、そう書いたのは、新生児についての記録方法についてあれこれと考えていたからでした。


新生児の生活という視点での観察が積み上げられないから、いつまでたっても「母乳の飲ませ方」が中心の方法論と新生児の記録方法になってしまい、見ているつもりが、思い込みに囚われることになっているのかもしれません。


わかりにく話かもしれませんが、少しずつ書きながら整理できたらと思っています。



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