今年は7月に入って急に猛暑日になりました。毎年のように猛暑日を経験していても、それこそ「喉元過ぎれば熱さ(暑さ)忘れる」ですね。
予想気温35度だというのに散歩の計画の段階では、なんだかどこまでも歩けそうな壮大なものが出来上がりました。
計画では琴電長尾線の農学部前駅で下車して、女井間池(めいまいけ)・男井間池(おいまいけ)とその周辺の神社を訪ねたあと香川大学医学部附属病院のそばを抜けていくつかため池に立ち寄りながら久米池まで歩く、というものでした。
当日のメモでは「33度、熱風のよう」「香川大学病院、山の中腹」と残しています。
車窓から見えた病院への上り坂を見て、計画は無謀すぎたと悟りました。
長尾駅で一休みしていたらしだいに日差しが穏やかになり、午後3時ごろにはもう少し歩けるかもしれないと思い、琴電の中で計画変更しました。
水田駅で降りて歩けば、久米池まで30分ほどのようです。久米山のそばに造られたため池ですから上り坂は覚悟する必要はありそうですが、なんとか行けそうな気がします。
ということで気になっていたその名も「水田」駅で下車しました。
「水田」そして「久米池」、まさに私の求める散歩の地が広がっていそうですね。
*久米池へ*
田んぼの中にある鄙びた駅舎を想像していたら、まさかの高架橋の上の駅です。
地上に降りて道に出たときには、方向感覚を失って反対の方へしばらく歩いてしまいました。
あぶないあぶない、もう一度地図を確認して北へと向かいました。
車窓からは田んぼが少ないように見えたのですが、水路があり、しばらく歩くと田植えが終わって稲が10センチほどに青々と広がる田んぼがあり、そばに「五穀豊穣」「萬人安泰」という石碑がありました。
ここから新川の堤防沿いへと入ると、対岸に小高い場所が見え、その反対側に久米池があるようです。
堤防の上は生活道路のようで、幅20センチほどの白線の内側を車を避けながらため池を目指しました。
新川の中には複雑に水路があり、あちこちへと取水しているようです。
どんな歴史がある川なのでしょう。
橋を渡ると上り坂になり、久米山へと入りました。木陰に助けられながら歩くと、切り通しの道の北側がひらけて久米池の水面が見えました。その向こうには平らな台地のような山が見え、斜面は採石で削られた跡でしょうか。
じきに下り坂になり石清水神社の境内になって、その向こうに久米池が広がっていました。
大きいため池です。
「石清水(いわしみず)神社」といえば巨椋池(おぐらいけ)のそばにあった石清水八幡宮を思い出したのですが、御由緒には「天平十一年」「九州宇佐八幡宮より別御霊を御勧進申上げ」とあります。
2年前に大分の西国東(くにさき)干拓地を訪ねたいと地図を眺めていたときに、宇佐神宮は全国約44,000社ある八幡宮の総本社だと知りました。
天平(てんぴょう)元年(729)ということは、宇佐神宮が創建されてわずか4年後にこの地に建てられたようです。
倉敷の高梁川にある「流域の民を守る八幡山」は天暦元年(947)宇佐八幡を勧進したものでしたが、8世紀ごろでも人や神様の移動は相当な範囲だったのですね。
大きな水面を渡る風というのは涼しく心地よいもので、暑さをしばし忘れて眺めました。
*おまけ*
久米石清水神社の御由緒の中に弘仁(こうにん)元年(810)に、空海がこの地を訪ねたことが記されていました。
空海(弘法大師)といえばまんのう池の修復をされたことを昨年知りました。
そして改めて空海について読み直すと、ああ、そういうことだったのかと初めて知りました。
故郷である四国において彼が山岳修行時代に遍歴した霊跡は、四国八十八箇所に代表されるような霊場として残り、それ以降霊場巡りは幅広く大衆の信仰を集めている。
お遍路さんは知っていても、四国八十八ヶ所の意味は知らないままでした。
それにしても晩年の母は何を探し求めて四国巡礼に行ったのでしょう。
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