乳児用ミルクのあれこれ 44 東京は酪農の発祥地

なぜかつて牛がいた場所を散歩しているかといえば、「育児用乳製品の店」があった時代に「明治時代からしだいに牛乳も生産されるようになり」と書いたあたりの知識は、たぶん高校生ごろには知っていたのだと思うのですが、具体的にどんな歴史があったのかが気になり始めたからです。

「乳児用ミルクのあれこれ」のまとめにも書いたように、乳児用ミルクと最もといって良いほど身近に働いてきた仕事なのですが、その原料である牛乳がいつから、どこでどのように作られてきたのか日本国内の歴史をほとんど知りませんでした。

 

散歩で寄り道した歴史資料館や郷土資料館の資料や写真から、現在の都心部にかつていくつも牧場があったということも、ここ数年で知ったことでした。

 

それでも日本の酪農は北海道などから始まって、都内にたまたまあった空き地で小規模な酪農が行われていたと思いこんでいました。

 

ところが、ネットで見つけた「明治期の東京に於ける牛乳事業の発展と経過の考察」(日本酪農乳業史研究会:矢澤好幸氏)という資料を読むと、日本の酪農は明治期に東京の都心部から始まったことがまとめられています。

そして、牛込という江戸時代には大名や旗本の住む武家屋敷が集中した地域で、伝統ある山手住宅街に、明治に入って牧場が作られた理由もわかりました。

 

*「搾取業の誕生」より*

上記の資料の「はじめに」に、明治政府が始めた牧畜業について書かれています。

明治政府は、元来仏教思想により、牛の用途を耕転・運搬のみ出会ったものを、泰西(欧米)農業を取り入れ牛乳及び牛肉の生産物を利用する思想に大転換して牧畜業、即ち生乳搾取業という呼称で酪農乳業を導入した。そして殖産振興と富国強兵の理念により勧農政策を講じるため、外国へ積極的に人材を派遣および留学させ、酪農乳業の調査研究を行い、かつ海外文献を翻訳させ教育事業なども施した。 

このあたりはなんとなく知っている部分ですが、驚いたのは次の箇所でした。

一部を除いて東京は最初の受け入れ地となり、此処から全国に酪農乳業が伝播して普及啓蒙を図った。 

 このような環境下で東京の牛乳搾取業者は、外国より乳牛の導入を図りながら試行錯誤を繰り返し、旧大名屋敷の荒廃した跡地を利用して、牛種を短角種から搾乳量の多いホルンスタイン種牛に自らを変え飼養を定着させた。この業務は旧旗本らの授産事業の一環として、或いは牧場熱が高まる政府高官がオーナーとなりニューベンチャービジネスとして牛乳搾取業、即ち今日の都市型酪農乳業に発展させた。このため東京は、全国の1/3を占めるなど、都市から牛乳搾取業を発生させ、そして農村に酪農を展開させた形態をみると世界においても大変奇妙なケースであったといわれる。(強調は引用者による)

 

 

そして「搾取業の誕生」に、具体的な歴史が書かれていました。

要所をまとめると以下のような流れです。

  • 明治2年(1869)築地牛馬会社を設立
  • 明治4年(1871)前田留吉が芝西ノ久保桜川町に搾取業を開業。前田留吉の指導で急幕臣辻村義久が下谷仲御徒町、旧幕臣坂川富晴が麹町五番町、越前屋守川幸吉が木挽町、水町牧場が築地水町が原に開業するなど、5軒が開業、乳牛は15頭を飼育したのが搾取業の始まり。
  • 明治6年(1873)に東京市は芝新堀町小川松助、練堀町伴練三郎、神田佐久間町清水昌左右、牛込北町大田堅、本町相生町安田国右衛門、南神保町居村永太郎、下谷御徒町辻村義久らに牛乳搾取並びに牧畜許可を交付。
  • 明治8年(1875)「東京牛乳搾取連合」結成。

 

今では都心の一等地のような場所ばかりですが、明治期の写真を見ればまだ森や空き地が広がる場所がここかしこにあったことが想像できます。

 

明治10年代に入ると、浪人が多数この搾取業を始めてはうまくいかずに撤退していたらしいことが書かれています。

しかし、和田牧場2代目該輔によると、・・・私の父も徳川浪人で、こう見えても昔は2本差して威張られる身分であった。その頃の牛乳業は妙なもので、最も之は東京に限る事かもしれないが、多くの浪人共が所謂士族の商法でやり始めたものであった。そして何時とはなしに凋落して跡方のなくなった人達も可なり多い・・・と明治10年代を指摘している。 

 

 *明治期の3つの分類*

冒頭の資料では、「まとめ」に東京の酪農の発展について明治期を3つに分類して書かれていました。

1)揺籃期(明治元年明治13年頃)

明治4年〜5年は東京に於ける搾取業の発生期で都心を中心に誕生した。新しい産業であったため旧士族や政府高官がニュービジネスとして競って従事した。特に先覚者であった前田留吉の働きや、公衆衛生知識に造詣の深く牛乳をPRした松本良順が果たした役割は非常に大きかった。搾取業は要地であったが外国から乳牛を輸入して東京の搾取業は積極的であったので、内務省に働きかけ、乳牛の改良や酪農乳業の組織の構築、新聞、学術書によって牛乳をPRするなど事業をおこした。

 

2)勃興期(明治14年〜明治33年頃)

都心各区の搾取業は明治20年代において隆盛を極めたが周辺11区に随時奪われ20%ほどに推移した。反面周辺11区は13〜80%まで増長して、搾取業の形態が大きく変化した。活気的な新しい乳業技術を紹介するなど注目された。そして搾取業を搾取販売業から請売販売店に分化して機能分離が始まった。このため牛乳搾取組合及び牛乳共同組合など組織的にも変化を及ぼした。

 

3) 発展期(明治34〜明治44年頃)

牛乳営業取締規則の発令により、搾取業は近郊郡部に移転を余儀なくされ、生産率の高いホルンスタイン種牛に限定した。さらに都市社会の変化と牛乳需要の増大に伴い、搾取業が牧場と小売販売業が分離して乳業の構造を変えながら発展した。加えて牛乳の殺菌法の導入は搾取業者が独自に導入するなど、さらにガラス壜の配達器具(法)の改善により公衆衛生管理の懸念が強化された。特に明治後期においては設備投資を必要としたが家業から企業として近代化に向かって構造変化が行われ発展をした。

 

この資料を突き合わせて考えると、1908年(明治41)頃、渋谷近辺に61ヶ所も搾乳場があったのも、都心から近郊郡部へ移っていった時代だったのかもしれませんね。

 そして葛飾区に「育児用乳製品のお店」があったのも、東京は乳牛が身近なところにいたからこそなのかもしれません。

 

 

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