記憶についてのあれこれ 138 災害時の記憶

記憶というのは本当に曖昧だと、今回、紀伊半島をまわって思いました。

そうだ、紀伊半島大水害は2011年、あの東日本大震災と同じ年だったのだと思い返しました。

 

ずっと気になっていた紀宝町の名前が頻繁に出てきましたし、大量の流木がダムを作って被害が大きくなったことなど、なんだか私もその場に生活しているような気持ちでニュース追っていました。

それなのに同じ年であったことが曖昧になっているのはなぜだろうと、旅の間も記憶を行ったり来たりしていました。

 

2011年9月頃の私は、何をしていたのだろう。何を考えていたのだろう。

 

2011年の手帳を久しぶりに引っ張り出して見ました。

それまでの何年分の手帳も黒のボールペンでしか書き込んだことがないのに、2011年3月11日は「14:46  東北太平洋 M8.8 余震続く」という箇所だけ赤字で書き込んでありました。

翌日からは未曾有の災害の中、出勤し、あるいは新生児訪問にも行き、そして歯科受診もしていたことなどがいつも通りに書き込まれているだけでした。

 

手帳を読みなおしてみると、こちらの記事に以下のように書いたことも、少し違っていました。

震災後、ほとんどの公共のプールが節電のために5月頃までは休止していました。

再開して泳げるようになっても、喜びの反面なにかぜいたくをしているようなうしろめたい気持ちが今もあります。 

 

少なくとも1ヶ月ぐらいは泳いでいなかったような気がしていたのですが、実際には震災から12日後の3月23日に、「プール!」と記録していました。

泳げることがこんなに嬉しいことだとは、という思いがあったのだろうと思います。ただ営業時間も営業日も減らされていましたし、泳ぎに来ている人たちもなにか息をひそめているような重苦しい雰囲気でした。

しかも、同じ日に「東京都水道より放射性ヨウ素、乳児への対応」と記録されていますから、いつプールが閉鎖されるかわからない状況の中でした。

またその年は、4月の競泳日本選手権も急遽、浜松での開催に変更になり、5月のJapanOpenは中止になりました。そのため、5月25日には「チケット払い戻し」と記録してありました。

 

震災を思い起こすような内容はそれくらいで、あとは、淡々と日常生活を送っていたような記録です。

 

ただ、2011月9月3日には「台風12号」と書き残していました。

たしかに紀伊半島だけでなく関東も被害があった台風でしたが、それまでは台風の記録を日記に残していたわけではないので、あの熊野地方の状況になにか気持ちが動かされて書いたのだと思います。

 

災害時の授乳支援の冒頭で、あの3月11日の様子をこう書きました。

本棚が倒れそうになるのを押さえ、ようやく揺れが落ち着いたところでテレビに映っていたのは、大津波が人を車を飲み込んでいく様子でした。

今、この瞬間に起きていることを見てしまっているのだという恐怖感と、次々に各地の被害が伝わってくる中でとてつもなく大きな災害だという全体像が見えてきて、「日本は終わりだ」としか感じられませんでした。

 

その半年後に、また「日本は終わりだ」と思うような光景をみることになり、しかもずっと気になっていた地域にそれが起きたことに、むしろ現実感を感じられなくなるほどの衝撃を受けたのではないかと。

それが、私の記憶を曖昧にさせた理由かもしれません。

 

 

それから4ヶ月ほどたってから、かねてから書いてみたいと思っていたブログを始めました。

分娩のこと、新生児のことなどを書くつもりでしたが、やはりどこかで災害時の何かを自分の中でまとめたいという思いがあったのかもしれません。

2013年頃から、それがようやく言葉としてまとまるようになっていきました。

 

 

手帳を読み返すと、できるだけ感情は書き綴らないということを徹底していたのですが、かといって日常の変化なども書き残せていませんでした。

感情の揺れでもなんでもいいから、当日からもっと記録しておけばよかったかもしれません。

 

そういう意味でも、昨日紹介した熊野誌は、本当にすごいと思う記録でした。

何度も何度も大きな水害を経験していくうちに、何を記憶にとどめておくべきなのかが世代を越えて伝わっているのでしょうか。

 

 

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