散歩をする 131 竜王

先日、撮り溜めしていたブラタモリを観て、「あ〜先を越された」と思いました。

甲府」の回で信玄堤を紹介していました。

行こうと思っていたのに。まあ、先を競っているわけではないですし、甲府盆地がどうやってできたのかなど予習になりました。

ただ、放送の後に混んだら嫌だなぁと心配したのでした。

 

掛川へ行った時に、富士川を通過しました。これまでもなんども通過している川ですが、そういえば上流はどこなのかわかっていませんでした。

帰宅してから地図をじっくりと眺めていると、山梨県の途中で笛吹川釜無川が合流していて、そのあたりまで身延線が川の流れに近づいたり離れたりしながら通っています。

釜無川をさらに遡っていくと、少し屈曲した部分があり、「信玄堤公園」とあります。

 

30年ほど前に玉川上水に関心が出たときに、確か羽村取水堰に関連してこの信玄堤を知りました。

次の小旅行はここを見よう、そしてまだ乗ったことのない身延線に乗って富士川を眺めて見ようと思っていました。

 

竜王の用水路*

地図で見ると、中央本線甲府駅の隣駅の竜王駅から歩いてこの信玄堤公園まで歩けそうです。

甲府まであずさで行くことにして、チケットを取りました。春の繁忙期ですがかろうじて窓側の席が取れ、これで相模湖駅から上野原駅あたりの川も見ることができます。

当日、うきうきして駅に向かったところ、なんだかおかしい。

乗る予定だったあずさはとっくに出発してしまっていたのでした。「1号」と「51号」を読み間違えて、家を出たのでした。せっかく早起きして十分に時間もあったのに、痛恨のミスです。

駅員さんに伺ったら、デッキならそのまま乗れるとのことでした。

甲府まで1時間半、立って乗るくらい、普段の通勤列車に比べればなんてことはないと乗り込みました。大月までは、デッキもぎゅうぎゅう詰でしたが、外の風景は堪能できました。

 

竜王駅は想像以上に綺麗な駅でした。

駅の近くから水路に水が滔々と流れる音が、あちこちから聞こえてきます。

もうこれだけで、朝の失敗からすっかり気持ちを立て直したのでした。

 

途中で、どちらの道から公園へ行こうか悩む場所がありましたが、なんとなく勘で選んだ道が大正解でした。用水路と家並みがなんとも落ち着いた雰囲気で、途中に、一枚の説明書きがありました。

竜王河原宿

竜王は、戦国武将の武田信玄からいただいた免許屋敷の村です。かつて、この地は釜無川の河原でした。しかし、信玄堤が作られた後、堤防の維持修復とこの地域の新田開発をするように、越石、篠原や八幡等に住んでいた人たちをここに移住させました。これらの人たちには家と田畑を与えて、税金と労力奉仕免除の特権と与えました。これが免許屋敷「竜王河原宿」の始まりです。

信玄が与えたこの特権は、徳川氏の時代になっても認められ、引き継がれていきました。このような地域の人たちの努力があり、信玄堤はよく維持され、世の中の仕組みが大きく変わる明治までの間、約400年にわたって堤防は一度も壊滅的災害を受けたことがないともいわれています。

竜王村免許屋敷は、間口が八間(約145m)、奥行が五十間(約90m)、四百坪(1300㎡)の規格で一律に造られました。現在のまちなみにも、当時のおもかげが残っています。

落ち着いた街の印象は、こんなところからも来ていたのかもしれません。

 

しばらくいくと水音はさらに大きくなり、地図には水色の太い流れになっている場所だとわかりました。

ここが、釜無川から取水している場所で、「用水隧道開削碑」として説明がありました。

用水取水隧道開削碑は、釜無川からの取水のため寛永十三年(1638 )に高岩に隧道を開削し、翌十四年に富竹神殿に至る用水路(堰)を完成させた甲府代官触頭平岡二郎右衛門和由の徳をしたって、富竹新田村(甲斐市富竹新田)の村民が建立したと推測されます。

(以下略)

約3kmに渡る用水路が造られたようです。

 

*信玄堤公園*

取水隧道のすぐそばが、信玄堤公園の入り口です。

堤防を登ると、広々とした甲府盆地一帯が見渡せます。目の前には釜無川がゆったりと流れ、あの丸太と石などで組んだ「聖牛(ひじりうし)」がありました。

その向こうには南アルプスの山々が見えます。

ここからしばらく下流に向かって、霞堤が続いているようです。

 

心配していたような混雑はなく、堤防を歩く人やベンチで川の流れを眺めている人がいても、ゆったりした場所でした。

 

信玄堤で検索すると、治水前のあちこちからの水の流れが入り組んだ複雑な図を目にします。

甲府盆地が「古来から大雨による水害が発生する地域で、安定した定住は困難だった」(Wikipedia、「信玄堤」)とは、目の前の風景からは想像ができないものです。

「堤防築造と御勅使川(みだいがわ)治水により洪水被害は緩和され、盆地西部や竜王では江戸時代初期に用水路が開削され新田開発が進み、安定した生産力が確保されたと考えられている」(同)という歴史の全体像を垣間見る散歩になりました。

 

ただ、気になることがあります。

甲府盆地の欄外に書かれたこの件との関連です。

地方病(日本住血吸虫症)ー甲府盆地底部一帯は国内最大の日本住血吸虫症罹病地帯だったが、研究者や医師らによる病気撲滅の結果、1996年に収束宣言が出されることとなった。

6年前に日本住血吸虫症の企画展を観に行って、「ミヤイリガイ撲滅のために水田から果樹栽培への転換政策」「ミヤイリガイを繁殖させないための水路のコンクリート化と土地利用の転換」と書いたのですが、その当時はこの信玄堤による治水によって新田開発や用水路建設が行われたことを知らなかったのでした。

 

甲府盆地で水田を守って来た方々にとって、この転換政策はどのように受け止められて行ったのでしょうか。

 

 

 

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