ちょっと初夏の香りがした爽やかな4月中旬の午後、2時間ぐらい時間があったのでどこかを歩こうと地図を眺めました。
そうだ、以前青山上水を訪ね歩いた時に青山霊園の高低差に驚いたことがそのままになっていました。
青山霊園は外苑東通りと西通りに挟まれた形になっていますが、比較的まっすぐな東通りに比べて、外苑西通りは途中ぐっと曲がっています。
きっとそのあたりが、小高い地形の縁に違いない。そこを歩いてみようと思い立ちました。
よく見ると、青山霊園の飛び地のようにもう一つ「青山霊園立山墓地」があることに初めて気づきました。
Wikipediaの「概説」に説明がありました。
1872年(明治5年)、美濃郡上藩(現在の岐阜県郡上市)の藩主・青山家の下屋敷跡に開設された。当初は神葬祭墓地出会った。1874年(明治7年)9月1日、市民のための公共墓地となった。1889年(明治22年)、東京府から東京市に移管された。1926年(大正15年)、最上の建物のすべてが東京市に移管され、日本で初めても公営墓地になった。現在は東京都の所管である。面積は約26万平方メートルで、会津藩出身の桐生氏が開いた現在の付属立山墓地が興りとされ、隣接してのちの青山霊園への造成へとつながっていった。
飛び地のような墓地の方が先にあったようです。
*乃木坂から青山霊園へ*
乃木坂駅で降りて、青山斎場の横から霊園内に入りました。外苑東通りよりも2〜3m以上は小高い場所に霊園が広がっています。
霊園内も昔の「山」だった地形をそのまま利用して墓地があるので、結構アップダウンがあります。
今は周囲を高層ビルに囲まれていますが、1960年代ぐらいまではこのあたりではこの墓地が一番見晴らしが良く、静かな場所だったのかもしれません。
さて、著名人だったり権力を持っていた方たちのお墓は歴然として広く、墓石もさまざまな意匠が施されています。
池田明子氏の墓碑銘の話を思い出しました。
一角に外国人墓地があります。
明治から大正時代に来日し、日本で亡くなった方のお墓が結構ありました。墓碑銘にはチフスや結核で亡くなったことが記されているものもあり、あのリンド氏やヨハネス・デ・ケーレ氏のような遠く祖国を離れて日本に技術や知識を伝えようとした方々の動機は何だったのだろう、当時は生きて帰ることができないほどの覚悟が必要だったことでしょう。
あちこちに無縁仏になっているお墓もあり、都が縁故者を探している通知が表示されていました。
誰からも連絡がなかったらどうなるのだろうと思いながら歩いていると、そうした墓石が積まれている一角がありました。
「栄枯盛衰」は死後にまで、いえ死後にこそリアリティをもつのかも知れませんね。
もういっそのこと、都営霊園の中心に誰でも樹木葬してもらえる場所を作ったらいいのになと近い将来を考えながら一旦、霊園を出ました。
*外苑西通りから青山霊園立山墓地へ*
霊園の北側から今度は外苑西通りへと向かいました。初めて通る道です。
青山霊園と外苑西通りは数mぐらいの高低差がありました。霊園の反対側もなだらかですが小高い場所が続いています。
しばらく歩くと立山墓地がありましたが、青山霊園と立山墓地をつなぐように青山陸橋がありました。交通情報などで耳にする陸橋ですが、こんな地形であることを初めて知りました。その先は表参道方面になります。
立山墓地は青山霊園以上に急勾配の場所で、その向こうに根津美術館があります。
地図では美術館の敷地内に池があるのですが、その意味がわかりました。このあたりは台地と台地に挟まれた場所で、根津美術館は谷津の地形を利用して作られていたのだろうと。
表参道から青山周辺は、1980年代はまだちょっと高級感のあるビルがポツンポツンと出来始めていたぐらいの場所でしたが、平地だと思っていました。
当時の風景を今度は探してみようと思いました。
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