あちこちを散歩するようになって、現代でも「人を神として祀る」ことがあることに驚いています。
この出だしの一文でさえ、私の世代になると白を黒に、黒を白に変えさせられた父の世代の世俗の葛藤を思い出しますし、何か触れてはいけないタブーや批判めいたものになりそうなので、言葉にすることさえためらわれる感情で千々に乱れそうな内容です。
そして現実の生活では、そういう父も神棚と仏壇がない家に育った子はいい子ではないという強い価値観と、イデオロギーに入り込むなとの間で常に葛藤していたのでした。
あちこちを歩き始めた数年前は、たとえば夢の島や辰巳のあたりには全く寺社が無いのは、1970年代から80年代に埋め立てられた新しい地域だからと思っていたように、もう戦後は新しく神社を建てるような時代ではなくなったからだと思っていました。
ところが、愛知用水神社は1976年(昭和51年)に建てられています。しかも、その事業の中で殉職された方々を祀っていました。
自ら計画した用水建設で56名の犠牲を出したことに心を痛めた久野氏が、神社を建てたのでした。
「人を神として祀る」というのは、こういう葛藤の表現だったのかもしれません。
人の命に対して負いきれない責任との葛藤の表現のひとつ、とでもいうのでしょうか。
藤田神社も最初は「児島湾神社」という名前だったようですが、もしかしたら藤田伝三郎氏個人を祀るというよりもその事業でさまざまな犠牲を負った方をも祀っているのかもしれないと感じたのですが、どうでしょうか。
*神社の変遷について知らない*
1970年代半ばの高校時代には、時間が足りなくて十九世紀後半から二十世紀初頭の歴史は駆け足 で学びました。
それはまだ歴史として検証されていないという理由もあったのだと思います。
その中で「廃仏毀釈」「神仏分離」「復古神道」のニュアンスやあるいは「国体」いう表現はさらりと耳にしましたが、なんとも歴史として教えるにはまださまざまな感情や批判が渦巻く言葉だったのではないかと、当時の雰囲気を思い返しています。
戦後、四半世紀といった時期でした。
「人を神とする」「神から人へ」なんて、今でもちょっとタブーな言葉かもしれませんね。
あちこちの神社で「御由緒」を読むと、昔から神社は「人」を祀って来たのですね。
あまりにも神道について知らなさすぎました。
最近の若い人たちの「御朱印ブーム」などを耳にすると、私自身の神道や仏教の歴史に対する空白の時間との違いを感じます。
ただ、そのタブーのような風潮の時代のおかげで宗教と距離をおくことができたので、「祀る」のはどういう感情なのか、それをどのように利用するのかもその人次第なのだと、少し見えてきました。
恒例の、特定の神社参拝を政治に利用する風景は私には滑稽に見えるのですけれど、これも時代の葛藤でしょうか。
そしてその葛藤から解放されるには、一世紀とか二世紀といった時間が必要なのかもしれませんね。
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