発達する 24 環境に配慮するという意識

あちこちを散歩していると、「環境」という言葉がヒトの意識に定着したのもたかだか半世紀ほどなのだろうなと思います。

 

半世紀前、1960年代から70年代ごろ、私が幼児から小学生だった頃に「環境」と言っても、おそらく何を言っているのかわからなかった人も多かったのかもしれません。

あの頃は、水辺はゴミや生活排水を処理する施設に近い感覚でしたし、その少し前は山から木がなくなった時代もあったようです。

糞尿だけでなく、その辺にどこでも排泄したり痰やツバを吐いてはいけないといった下水処理施設整備と大人のトイレットトレーニングもこの時代からようやく始まったともいえるでしょうか。

 

まだまだ不十分なところはあるけれど、半世紀前に比べたらほんとうに清潔でルールが守られるようになったと、夢のような変化です。

 

絶滅危惧種」という言葉は聞かれなかったけれど、トキのようにこの地球からある種が消えていくことになんとかしなければいけないという危機感が出始めたのも、この時代あたりからでしょうか。

ただ、動植物を大切にするという意識は、その後少し間違った形で広がったのかもしれません。

動物がかわいいからあるいはかわいそうだから餌をあげることは間違っていることも、常識として浸透してきました。

あるいは、動物や植物を他の場所から連れてきて増やすことが間違っていることも、「外来生物」という言葉とともに広がってきました。

半世紀前には考えたこともないことでした。

 

もちろん、社会に知識が浸透するための時間差はありますが、半世紀前の公害問題から環境問題に、そして地球環境という言葉にまで変化してきたことを考えると、隔世の感があります。

 

ヒトの社会の中で、確実にこの環境に対する意識が発達しているのではないかと思えるのです。

 

*自分の選択が環境にどう影響するかまで考えられるようになれば*

 

先日歩いた黒川清流公園に、「湧水への影響を観察している」旨の大手建設会社の説明書きがありました。

公園の崖の上にはかなり広大なマンション建設予定地がありました。

長い間、この湧水を守ってきた方々との協議の結果でしょうか。

 

今までは住宅を購入する側も、通勤の便利さとか間取り、価格などで選択している人が多かったのではないかと思います。

あるいは、周囲の風景なども条件でしょうか。

 

これからは、自分たちがそこに住むことで環境にどのような影響を与えるのかまで考える時代になるのかもしれませんね。

 

さらに半世紀後には、どのように意識が変化していることでしょうか。

私は見届けることはできそうにないのですが、希望は感じられるこの半世紀でした。

 

 

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