佐布里池を訪ねる前にいろいろと検索していたら、愛知用水神社があることを知りました。
佐布里緑と花のふれあい公園の中にあるようです。
水の生活館をでて、もう一度、同じ道を通って公園へと戻りました。
計画では違う道を通る予定でしたが、水の生活館の展示を見ていたら、もう一度堰堤に立って知多浄水場を見てみたくなったのでした。はるか長良川河口堰から水が送られてきたという説明は愛知用水にも書かれているのですが、私は事前に資料を読んでも結構、こういう細かい箇所を読み飛ばしてしまいます。
読むだけではなかなか頭に入らず、実際に行ってみて文章が理解できるのかもしれません。
水の生活館で得た知識が、わずか30分ほど前に通った同じ道の風景をまったく違う景色に変えました。
ため池の周辺というのは独特の香りがあるのですが、それを含めて「命の水」という言葉を思い返しながら歩きました。
*愛知用水神社*
公園内にはあちこち案内図があります。
おかげで水の生活館にもすぐにたどり着けました。
ただ、愛知用水神社は描かれている場所の方へ行ったら、ちょっと道を間違えて引き返すことになりました。
いえ、これは地図のせいではなく、たぶんいかなる地図も主観的ゆえの受け取り方の違いだったのでしょう。
愛知用水神社は、少し小高い方向へと登り道がありました。「愛知用水水利観世音」というのぼりが立っています。
Wikipediaの「佐布里緑の花のふれあい公園」に説明があります。
1976年(昭和51年)に愛知用水水利観音堂とともに創建された神社で、総本社は吉野水分神社。愛知用水の工事期間中に亡くなった56名を合祀する。公園でも標高が高い位置にあって、公園を一望できる。
私が生まれた頃に完成した愛知用水で56名の方が亡くなり、私が高校生になる頃にこの神社が建てられたようです。
境内を出ると、大きな石碑がありました。愛知用水に関する石碑かと思い近づいたら、以下のようなことが書かれていました。
不老会の沿革
愛知県知多半島は地形上水利が悪く、知多半島の人達は水不足のために、永年苦労が続きました。
そんな時、知多八幡の篤農家の久野庄太郎氏が、用水建設を提唱され、それに同士濱島辰雄氏が賛同され、1961年(昭和36年9月)木曽御嶽山麓牧尾ダムを水源とし、延々120kmの愛知用水が完成し、知多半島は現在の繁栄を見ることに至りました。
この事業のために不幸にも五十六名の犠牲者が出てしまいました。提唱者の久野氏は、このことに大変苦慮され懺悔の日々でした。そんなある日、名古屋大学の総長勝沼精蔵氏に会われました。
総長の助言により犠牲者の霊を慰めるため、自らの遺体を医学解剖に提供することを決意し我が国初の組織的な献体運動を始められ献体者の会「不老会」を創設されました。
平成二十三年五月吉日
財団法人 不老会 知多支部建立
自らが提唱した用水路建設工事での56名の犠牲者に心を痛めた方が、神社を建てただけでなく、献体を進める運動を起こしていた。
献体が不足していた時代でした。
用水の完成によって知多半島の住民の生活は著しく向上し、産業も発展したが、反面完成までに56名の犠牲者が出た。中でもバイパストンネル工事の難工事で5人の犠牲者が出た。この犠牲者は、知多市の梅の名所・佐布里池(愛知用水の調整池)の辺りの治水神社に祀られている。
この犠牲者に対し、久野は「私が殺したようなものだ。私がこんな仕事を始めなければ、この人たちは死ななかった。」と嘆き悲しみ現場にひれ伏したという。
こうした過去のさまざまなリスクに対して重大な責任を背負う方々の存在によって今の社会があるのだとしばらく神社の前で頭を下げ、また雨脚が強くなった中、坂道を降りて行きました。
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